夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など

「崎」のついた面白そうな地名に惹かれ訪ねてみました。


初めて聞く地名では無く、pcのお気に入りページ最下段にずっと「夢見ヶ崎」を冠したサイトがあったのです。

以前,日吉のまむし谷と「松の川」に繫る暗渠を歩いたあとに
周辺の地歴なんかを色々調べている際に出会ったサイトだと思うのですが

今見ようとすると検出出来ない・・・残念。


夢見ヶ崎地名を擁する「加瀬山」の独立丘の形も異彩を放っています。
孤高のお姿でもあり神々しい。絶対沢山の籠もったものを内包していそう。

現代目に見えている姿は独立丘ですが、時代によっては海に浮かぶ島だったり
横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれませんね。


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左が鶴見川支流の矢上川。
最寄駅は横須賀線の新川崎駅。S55年開業の比較的若い停車場です。











そもそも「夢見が崎」というのが現代風のキラキラネームのような印象を受けるのですが
そうではなく、この地を訪れた太田道灌の故事に因んでいるという事で、
ならばいつ頃からそう呼ばれるようになったのか、また地形の変遷など机上で調べているうちに

やはり現場に行かねば・・・と。

道灌さん。
子供の頃近所に「道灌山」という地名があり深く考えることもなくごく普通に接してきました。
ここ川崎の地でも(いや、関東一円に)足跡や伝承を残していて
改めて不思議な響きを与えてくれるのです・・・


夢見る頃はとうに過ぎましたが、初めての新川崎へ。



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新川崎駅を左に出るとすぐに見える加瀬山のお姿。
手前の工事地帯は新鶴見操車場跡地の一角。

新鶴見操車場跡地は一部が開発されています。





私は「小倉跨線橋」からの荒涼とした風景~広大な空き地の一面のススキ野原とポツンとした箱のようなモデルルーム・・・も気に入っています。



さて加瀬山に登るルートは複数あれど、最初は北麓から登頂する予定。

山には川崎市「夢見が崎動物公園」があり、そこまでの道程にはアライグマのしっぽマークの
サインが路面に貼られているので忠実に辿ります。


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テニスコート沿いの暗渠。
(後々追ってご紹介するかもしれません)




























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長毛種の夢見・キャット・見返り。

「いい夢見ろよ」













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「夢見が崎公園」脇の階段を昇ります。
標高30m余にアタック














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蓋的なものが
































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当然といえば当然・・・

















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一気に登る感じなので息が・・・
















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昇った先は了源寺という寺社や墓地。
いきなり墓地があったので少しの驚きが。

そして山の中に元々は11基(それ以上あったという説も)はあったという5~6世紀にかけての古墳の跡を示す標が幾つかあります。
















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西端の方にあった白山古墳(4世紀後半築造、南関東では最も古い古墳)、第六天古墳は消滅しています。
(白山社・第六天社と弁天社もかつては存在しましたが、大正4年に天照大神に合祀されて現存せず、社地のあった丘も崩されて消滅)



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こんもりした高まりの頂に祠が載っているのが見えますが、蜂がタムロしているとかで見学不可能でした。
(9号古墳&道灌の碑があったらしい・・・です)























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意外に広い空間の山頂には、古墳跡や神社・お寺・墓地・動物園と実にいろいろなものがのっかっています。
東山麓付近には貝塚も。







子供たちの学習用の「日吉のタカラモノ探検」の様々な看板が設置されていて、それを眺め歩くのも楽し。


 「加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島だった」 

そんなわくわくするイラスト入りの説明版もありました。
縄文海進の頃(約6000年前)・・・に思いを馳せると何とも言えない場所に立っているのだと感慨も深いのですが、
「夢見が崎」という健康的で、華やかな明るい地名の音をイメージして臨んだなか、偶々かもしれませんが気づくと山頂公園には思ったより人も少ない感じ。小さい子も遊んでいなかったし。

急に風が起こり、何だか寂寥とした空気が流れていて、「早く下山したいな~」という気分に支配されてしまったのです。

そっち方面の感受性は鈍かったはずなんですがね・


折角昇ったのに・・・山頂の神社群や富士山が見えるポイントもあったようなのですが
早々と等高線の筋を横切って下界へと。


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室町時代の武将太田道灌が見晴らしの良いこの地に陣を敷き、築城を計画した晩に
自分の兜を一羽の鷲に持ち去られたという夢を見、築城を断念したという故事も記されています。




もののふにとって大事な兜。それを持ち去られたのは良くないお告げというか夢占ととらえたのでしょう。

その兜が南の鶴見川対岸の山に埋められているという言い伝えもあるそうです。
(行ってきました。また後ほど)


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地形みたいな雲が出ていました















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トーテムポール、子供のころから好きなんですよねえ。
箱根小涌園に昔あったやつとか。

























南山頂から下界へ降りて行きます

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またすごい張り出した位置にお稲荷さんの鳥居が。
横に階段があるのでそこから降りていきます。












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階段を降りて山の中腹あたり。
下アングルから眺めるのもいいな。上部がすっきりするから



























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道祖神が二体

















そして目に入ってきたのは・・・


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これ。
東京電氣
最初全く何のことか解さなかったのですが、「氣」という「気」の旧字を使用しているので面白いな、旧い
ものなんだろうな~くらいにしか思っていませんでした。

















調べてみると
「東京電気」とは東芝の前身。


明治41年、現在の川崎駅前に「東京電気堀川町工場」(現ラゾーナ川崎)が創業、白熱球等の生産を開始する。工場建設に辺り、大量の土砂が必要となり目を付けられたのがこんもりした加瀬山の豊富な土であった。


①東京電気は加瀬山の南東部分一帯(真下のyahoo地図黄緑アイコン周囲)を買収、
夢見が崎から約4km離れた堀川町工場は非常な低湿地に立地しており、その造成や多摩川洪水被害による工場復旧の為に、トロッコで加瀬山の南東部分(境界杭のある地帯)の土が運ばれ続けたのだという。

山が切り崩された時期、土砂が運ばれた時期については資料で幅があるので、長い期間をかけて順次
山の南東部は形を変えていったということなのだろう。

(マルで囲んだ番号は三枚下の地形地図に対応しています)

土砂が運ばれた跡地は国鉄が買い取り、官舎や球場として整備されたのち、現在は特養施設や庁舎、JR社宅が建っている。

山の南東部は加瀬山の中でも一番の高まり・ピークを有し、現在の日吉交番辺りまで山裾が延びていたという。(真下の地図では夢見ヶ崎公園入口の交差点辺り)

「夢見が崎」の小字名が付けられていたのはこの辺りのようなので(現在は小学校名や公園名、商店街などには残る)、往時の突端だったのだと想像して感慨が深くなります。

(夢見が崎地名については後程綴ります・・・)





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いつもお世話になっている現地の地図看板に小字名が薄字カッコ書きで表示されています(天地が逆)












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これはまたインパクトのある字名・・・字ドブ。古地図では「土浮」とか「土腐」の表示。
低湿地に付けられる呼称として、全国的に分布しているようです。
こちらの近隣では「長ドブ」などの活用形も。





加瀬山の切り崩しはその後も地点を変えて続行されていくこととなります。

①上述の南東部の切り崩しに続いて

②大正15年(1926)には天照皇大神の西側の山が切り崩され、新鶴見操車場の鉄道用地の埋め立て用に運び去られ、その跡には新鶴見操車場で働く人々の住まいになる鉄道官舎が建設された。


③昭和13年(1924)、現在の白山幼稚園辺り、前述の白山古墳があった辺りも、北加瀬地区の軍需工場(三菱自動車)建設用や小倉・木月近辺の住宅地建設の用途の為に使用された。

④矢上川に続くこの丘も北方の埋め立て用に掘られた。
(番号は下の地図に対応)

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図は川崎市のサイトを引用・参考にさせていただきました。
ありがとうございます。








切り崩された場所の現況写真等々、次回以降ご紹介致します。

この地域で稀な「丘」は、豊富な土砂の産出先として近代工業の礎になったということでしょう。


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加瀬山の土が運ばれた、東京電気(東芝)堀川町工場跡地に開発されたラゾーナ川崎にある工場の遺構。
掘ったら加瀬山の土の成分とか検出されるのかな。

事件捜査とかで土の産出先とか鑑定するみたいに。



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「東芝ブラウン管発祥の地」


















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加瀬山から川崎駅前まで土が運ばれていったのですね・・・











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「夢見ヶ崎」という地名について。

文献で出てくるのは江戸後期に編まれた「新編武蔵國風土記稿」の
「加瀬山」の項に、

「(加瀬山の)東方はづれを夢見崎と云。其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、
其夜道灌己がかぶとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所に飛去りしと夢見しかば、此事不吉なりとて
其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎とは唱るよし土人伝ふれども、
外により所なし


「外により所なし」が気に留まる。。。

土地の人たちの間でこういう話が伝わっているけれども、確かな事は明らかになっていない、という意味でしょうか?

また「加瀬山」そのものに関して、北加瀬村の記述に

南加瀬と当村(北加瀬村)の間に突出し、山の中央を両村の境となせり、高さ八九丈、山上は畑を開けり、
其畑の中に四五坪の小高き芝地あり、松樹二三株立り天守台とよべり。相伝ふ往昔太田道灌この所
に城を築かんとせしかど、故ありてそのことやみしなど土民の口碑にのこれるは前村にも戴する山の
条下にあり、さあらんには天守台の唱へは後人の名付しこと論を待たず。」


山頂には、道灌の故事に因んだ天守台と称えられるさらに小高い地があったようです。


太田道灌は室町時代の武将、なので夢見ヶ崎の地名は1400年代半ばから1800年代半ばの間には
いつしか言い習わされるようになっていったのか・・・と随分ざっくりとではありますが考えるに至りました。


調べる過程で、非常に参考になる貴重な御本との出会いがありました。
場所は武蔵小杉の図書館。地価上昇率ランキングトップ・槌音響く武蔵小杉で降りたのはじめてかも。。!
(武蔵小杉と聞くといつもケイン・コスギさんのお顔が浮かんでしまうのです)


慣れない書棚で何気無く手にした小さな古い本「史蹟名勝夢見ヶ崎」。
高橋東秀さんという地元にお住まいの方が書かれた、昭和12年発行された本です。
年月を経ているので、大事大事にそっとめくりながら読みました。

夢見ヶ崎への愛が溢れていて、この地の事をよく知らない私にもその熱い思いが突き刺さるような冒頭から引用、ご紹介をさせていただきました。


夢見ヶ崎の崗の麓に生れて育つた私は、實に明けても暮れてもこの丘の風情を身にしみて来たものです。
それゆゑ、世間からは、やれ夢見ヶ崎狂だの、道灌狂だのと半ば冷嘲的にさへいはれて来たのです。
私は只、夢見ヶ崎の歴史を瞭らかにし、又、この美しい風光を出来るだけ世に紹介して、久しい間の
念願を成就したいとのみ考へたのでしたが、時運は繞って(めぐって)遂にこの丘のある土地が川崎
市と併合しさうして大きな近代工業都市としてはどうしてもこの崗をわれらが安息の場所として考へね
ばならぬやうになって来たのです。そこで兼々考へてゐたことを記念するために、去る九年以来の計画
を実行しようとする其の一のあらはれとして、この小冊子をまとめ上げたわけなのです。・・・中略
唯、少しでもこの丘の面白さ、ゆかしさ、美しさが胸に落ればそれで満足です
。」


いやいやいや。
「夢見ヶ崎狂」ユメミガサキ・フリーク・・それは最上級の褒め言葉です。。。その道を突き進んでこそ。
この丘が好きで好きでたまらない方が、戦争前夜の9年来著そうとあたためてしたためた本、絶対に面白いにきまってる。


川崎の駅から南武蔵の平野を横切るやうに走る南部鉄道に乗つて、鹿嶋田といふ駅近くなる頃、
間もなく車窓に緩やかな形をした翠の深い丘陵の横はるのが眼に映るであらう。それが夢見ヶ崎だ。

夢見ヶ崎、斯う呼ぶと、その名稱(称)の響きからして、人の胸に何ごとか追走のさゞなみを湧かすであろう。
あれは、夢を懐く丘だ。なつかしい夢を抱く崗だ。

此の夢は、誰あらう太田道灌の夢だ。夢と伝えられて居るのだ。太田道灌は、武蔵の平野を縦横に馳驅
して、白雨の滴より数多くの物語を残した熱血漢だ。好もしいきびきびした男だ。
この好漢の夢であった、夢を抱くあの大きな崗よ、誰か、追懐の心を露の如く注がずに居られようぞ。

元の日吉村字北加瀬、同南加瀬の二つの大字に跨る丘なのだ。

試みにこの丘崗に立ち、佇み、膝を組み、雲の去来する彼方を眺めてみよ。
東に、多摩川の清く美しい波が、川原の小石に白く小さな泡を吹きながら羽田の海へすべって行く。
南に、鶴見川の静かな流れがある。
あらゆる木立の茂みから四季不断の武蔵野の風が湧き、丘を渉るいくつかの斜めな路が串通して、
そこに寺と社の風致を見ることが出来る。

・・・丘に立てば、追想の糸はどこまでも続いて行く。」


東秀翁が何歳くらいの時に書かれたのでしょうか。
旧漢字や文語調の言い回しが難しく、字体から想像して読む楽しさを与えていただきました。
反語が含まれる箇所なんて、こちらが興奮してしまいます。

新川崎駅がまだ存在しない頃の、鹿島田駅付近からの車窓風景の描写が貴重です。
そして山上に立つと、多摩川まで望む事が出来たのでしょうか?

私がふと不安に駆られた突然の風は、武蔵野の風が吹き抜けたに過ぎないのかも。
次にまたここに登る機会があれば、もう少しの間山上に留まって、色々思いを巡らせてみよう。

 
そして、上述の「風土記稿」にある山上の”天守台”について、東秀さんの文でも以下のように触れられている

「兎も角、土人の口碑といふ一事が先づ以て光って居る。里伝の発端が、この道灌懸慮に在るとした。
或はさういふ計画であったかも知れぬ。今、天守台といはれる所に、八幡宮の小祠と記念の石碑が
建って居る。」



加瀬山山上に現在立地する了源寺、ここは妙法寺と呼ばれていた時期もあり、ここの当時の住職と道灌は
親しい間柄であったという。

《太田道灌の夢》という小見出しから、風土記の説を引きつつ、夢見ヶ崎という地名が伝わった経緯が記されている。

「・・・さて、道灌はしばしば此処に来ては、丘上に屯営したといふ事である。即ち、想ふに、戦場の
往き還りか、又は時として四辺の状態を探る為の往来か、或は単なる風光を探ってこの物外の交
りを暖める為か、必ずその何れかであったらう。
斯うして土地の相貌に親しみ、馴れ、眤んでは、勢ひ、軍略上の要害地としても充分に考へられた
ことは相違ない。やがて築城せんとして改めて地相を見直すに至ったとの里伝が生まれるやうに
なったのである。」


古墳時代から人々が住み続けてきた丘の良さを道灌も肌で感じ取っていたのでしょう。

ここから先の話は、「夢見ヶ崎」地名の由来として伝わっている部分が含まれているが、本書には
より詳細な評伝も記されている。

「ある夜の屯営の夢に、忽然として羽音を博つ(広げる)一羽の白鷲、陣営に風を起こすよと見る間に、
其所に措いてあつた道灌の兜をいきなり咬へて飛び去った。凄まじく飛び去るなと見送ると、ここから
九町ほどの距離にある駒岡山に、咬へし兜を放し置くと見て、夢は醒めた。

吉か凶か、瑞兆か凶兆か、道灌としては、まことに気にかかる夢である。思ひ迷うて此の夢のさまを
妙法寺の住職に物語り、且つ其の判断を聞いた。
 
言下に答へていふやう、夢は極めて凶である。此の地の築城思ひ止まり給へ。
東の方、大川のあなたに良き地相の所あれば、そこに落着し玉ふべしとある。」


懇意にしていた住職に夢の判断を仰いだ道灌、「大川のあなたに良き地相の所」=江戸方面への
築城がお勧めされたのですね。
未開の地であった江戸になぜ城を築こうとしたのか・・・という古来からの疑問に対しては諸説存在
しますが、その背景としてこのような逸話が伝わっていたことは初めて聞き及びました。

「・・・ここに恨みを呑んで築城を思ひ止まることとした。江戸城が出来上がったのは之から間もない
長禄元年彌生の頃であつた。

加瀬山の夢あつたればこそ、彼の雄渾なる江戸城に着手したものともいへる。

しかし、道灌は、心を悉く此の丘陵から離すことは出来なかった。それほど愛着が強かったのだ。
寛正六年には、八幡宮の祠を、此の頃の天守台に建立したと伝えられる。
天守台といふ名は、前にも述べたやうに、恐らく築城配置の縄張り当初に考えられた場所なので
あつたらう。加之、ここに和歌一首を詩吟せられたのであつた。


さまゞの 眺めも果てずよしや世の 夢見が崎の春のあけぼの

和歌の題に、夢見ヶ崎とあると伝えられるから、いはば、文明五年の彌生の頃にあつて、己れ夢
の不可思議を思って崎の名になしたものか、或は又、此の吟詠ある以前、既に夢見の話が著名
となつて、誰称ふるとなく、加瀬の丘陵を夢見ヶ崎といふやうになつたのを、道灌も亦ほほゑみ
うなずきしつつ、柔らかな春のあけぼのを詠んだものか、何れにしても、夢見ヶ崎の夢は、正しく
大なる覇業の根本を、底から覆がへしたものとなつた。
成らざりし昔の事から、夢見ヶ崎の名に表われる物語を以てその解説の妥当としたものか。
そこに星霜(年月)久しき里伝成長の妙があつて、白銀の如き滴歴を下して居るのである。」
 


東秀翁による夢見ヶ崎地名考、佳境から一気にクライマックスに突入した感じです。
最後の一文の後半あたりは私はよく解りません・・・

道灌が詠んだとされる歌はやがて了源寺の住職に与えられ、色紙一筆がとある家に宝として伝わっている
との事です。

登場する年号:長禄元年(1457)、寛正六年(1465)、文明五年(1473)だけでも16年間に渡り、道灌と当地との深い関わりが推測されます。それ以前に幾度となく道灌は夢見ヶ崎を訪れているとされており、各地を駆け回った太田道灌(1432~1486)の人生の於いても、この場所は思い入れの強い特別な地のひとつだったのでしょう。
(しかし年号が頻繁に変わる)

道灌が生きている間に夢見ヶ崎の地名が既に定着し、離れた場所にいても聞き及んでいたのでしょうか。
それとも時間の経過をみたのち、道灌の故事を引いて呼ぶようになったのか・・・

また、夢見ヶ崎には昔より「二十六夜会」というものが伝わっていたそうです。
道灌の死後、道灌を敬慕する土地の人々が年々二十六夜に月を鑑賞する集いであり、天守台の観月地で
昔語りなどに興じたというもの。

加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません。昼間でも不思議な風を感じたので到底夜になど近づく気がしないのですが・・・


結局「地名考」と言いつつ殆どが引用になってしまいました。。
この素晴らしい本を目の当たりにして、耽溺しています。



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持ち去られた道灌の兜が着地したという、駒岡。
ここもまた山の上(丘ってかいてあるけど)にあります。












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道灌さんの「灌」の字が金へんになってて面白い~。
史蹟の説明版には、江戸城を構成する支城の候補地を選定すべく、加瀬山を訪れたという
史実の記載になっています。









紫アイコン、上末吉小学校辺りが兜塚。
鷲は夢見ヶ崎からほぼ真南の方向に飛んでいき、鶴見川を渡った辺りで兜を落としたようです
(重さに耐えかねたのか)


*****************************

次回以降、夢見ヶ崎周辺の細かい散策、暗渠探しも綴っていきます。
あとは、道灌さんの通った道はここかな~とか。

最初に来た時は右も左もわからず、完全に異端者というか。この土地の香りが思うように把握出来ず。
二回目くらいからでしょうか。やっと「日吉に近いんだ・・・というよりここも日吉と呼ばれていたんだ」みたいな
基本的な地勢が見えてきて(普通の人には当然に見えても自分には何故かこの点が欠落していたのです)。

そうなってくると感じ取る事も見えてくるものも不思議と多くなっていきますね。

旧いものが集中的に点在していて、本当に興味の尽きない土地でした・・・!

最後に「夢見ヶ崎音頭」というのがあるそうなので、抜粋してご紹介させていただきます。

「〽ハア~ 春は桜の夢見ヶ崎よ(ソレ) 中略
太田道灌 日吉の里に 日本一と 折り紙付けて
お城を築く事 決めたとさ
・・・・・」


伝道灌さんの和歌もゆかしくて良いですが
こちらは盆踊りでしょうか。体を動かし移動しながら夢見ヶ崎の地名を口ずさみ踊れるのが
いいですね。
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by onnbubatta | 2014-01-29 12:45 | 神奈川 | Comments(14)
Commented by kanageohis1964 at 2014-01-29 23:01 x
こんにちは。

非常に緻密に調べられていますね。太田道灌絡みの言い伝えは信憑性が低いとされるものが多かったりするので、これもその1つと「風土記稿」編者が判断したのかもしれませんね。
Commented by onnbubatta at 2014-01-30 09:45
>kanageohis1964様
こんにちは。コメントをありがとうございます。
風土記稿に拠り所を求めたのですが、そこでも少しぼかしたような言い回しになっているように感じられました。民衆の願望や後世の状況等々で伝承が変化していった可能性もありますね。
kanageohis64様のブログ、非常に興味深く拝見させていただきました。私は神奈川方面の地誌に明るくなく、輪郭の把握に時間が掛かってしまいます・・お出掛けした際にはブログで色々勉強させていただきたく思います。
今後とも宜しくお願い致します。
Commented by lotus62 at 2014-01-30 12:31 x
うーん、読み応えがありました。
実は昔矢上川が鶴見川に合流する辺りに数年住んでいたことがあり、夢見が崎も印象に残る地名なので当時から軽く「?」とは思っていましたが…。まさか道潅さんと関係があったとは!そしてそれを謡うように説く偉大なフリーク!!
日吉駅を普段使っていると、まさにこの辺は駅から遠い「裏側」エリアなんですよね。知人から「東京から君の家に行くなら横須賀線に乗って新川崎に出たほうが圧倒的に速いよ」と言われるまで、こっち側エリアには関心もなかったくらいです。
Commented by onnbubatta at 2014-01-31 09:29
>lotus62さん
嬉しいコメントをありがとうございます。長文となりましたが今回初めて「字数を減らすべし」とブログ管理画面から警告が出て驚きました・・

夢見ヶ崎に近接したエリアに以前お住まいだったのですね。流石の
物件というか場所のセレクト!裏側エリアというのは穴場地域且つ魅惑の氾濫原・・・

私もこの辺りは着目点としてすっぽりと抜けていたのでした。少し歩いてだけですが、駅軸から解放された、川崎でも日吉でもない色を持つ混沌とした受容性があるなと思いましたよ。
lotusさんの旧居辺りから歩き始めても面白そうですよね。

湘南新宿ラインを使うと本当に都内からあっという間ですね!

この辺り用水筋も多彩だったようですが、新鶴見操車場の建設で供給が分断された所もあったみたいです。



Commented by sumizome_sakura at 2014-02-02 17:20 x
力作ごくろうさまです! 夢見が崎もなかなかに「聖地」みたいですね。

太田道灌伝承は私も気になったので、少し調べてみました。江戸城は武蔵野台地の最東端、夢見が崎も多摩台地の鶴見川以北では最東端の「岬」なので、その連想の産物かなと考えていたのですが、もっと中身があるようです。史料がかぎられているので、推測や想像がかなり入った話になりますが。

太田道灌は1486年に主君の扇谷上杉定正に暗殺されますが、その後も彼の家はつづき、最後は後北条氏に寝返って、1524年に江戸城を北条氏康に明け渡します。北条氏の家臣だった頃の太田家の支配地のリストは、1559年の『北条家所領役帳』でわかります。それによると、鶴見川とその支流の早渕川の北岸に、太田家の領地が帯状に点在していました。夢見が崎のすぐ南の「小倉」もその一つで、夢見が崎もたぶんそこに含まれていたのでは。
Commented by sumizome_sakura at 2014-02-02 17:26 x
(コメント長い!、と怒られてしまったので分けます。ごめんなさい)

これらは1476~82年の長尾景春の乱のときに、道灌が手に入れたもののようです。景春側の大きな拠点の一つが横浜の小机城だったので、それに対抗する陣地として夢見が崎とその近辺も占領して、そのまま自分の支配下に組み入れたのではないでしょうか。
鶴見川河口部の「潮田」も『所領役帳』のリストに載っているので、長尾景春の乱が終わった後も、鶴見川の北岸を押さえる上で、最も東にある丘であるここは、ある程度重視された地点だったと思います。道灌が手に入れるかなり前から都市だった江戸とは、さすがに比べものにはなりませんが(^^;;、地形的には、江戸城の丘の麓を平川が流れるのと、夢見が崎の麓を矢上川が流れている姿はたしかに似ています。

道灌または太田家の「東京湾制覇!」の夢の痕跡なのでは、という気がしてきました。
Commented by sumizome_sakura at 2014-02-03 16:01 x
(しつこくお邪魔して、すみません)
『所領役帳』の領地のリストをみると、東京湾沿いで一番東は「長島」でした。ここは江戸川の河口部で、戸ヶ崎や猿が股と同じく、室町時代には香取社の河関があったところ。
で、太田家の一番重要な拠点だった江戸は隅田川や入間川、平川の河口部。多摩川河口の「河崎」も領地で、六郷も別の資料から太田道灌の実質的な支配下にあったことがわかります。で、そのさらに南の鶴見川の北岸にまで手を伸ばしていたわけで、どうも東京湾を自分の勢力圏にする気だったのでは。
太田家は最初の主君の扇谷上杉家から疎まれ、寝返った先の北条家からも疎まれて、没落していくのですが、「これじゃあ疎まれるよww」と思いました。そういう「東京湾制覇!」の夢を道灌や太田家が本当にいだいていたとすれば、この丘はいわば夢の拠点、というか夢の先端。「夢見が崎」の名前はぴったりです。
Commented by sumizome_sakura at 2014-02-03 16:07 x
(これで最後です^^;;;)
まあ当時の地名にはこんなファンシーなものはほとんどないので、地名自体はかなり後からついたと思いますが、この丘に道灌や太田家が見た夢や託した願望が、陣地の遺跡や寺社など、何かの形で残っていて、それが種になってやがて伝承が成長していき、そこから地名ができた、ということならば、十分に考えられます。
そうなると、道灌や太田家の夢が一度この地に埋もれて、やがて別の形で芽吹いて花咲いた、ともいえるわけで。まさしく「星霜(年月)久しき里伝成長の妙」、「加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません」という言葉に、あらためて唸らされました。
いろんな意味で「地霊genius loki」を感じさせる場所ですね。
Commented by onnbubatta at 2014-02-04 08:30
>sumizome_sakuraさん
墨染桜さんとの「崎談義」をきっかけに突っ走ってみました(^^)
頂戴したコメント、反芻するようにじっくりじっくり嬉しく熟読させていただきました。字数制限でお手数お掛けしました。
所領リストの物件を大まかに地図におとしてみたりしたら、弧を描くような形状が浮かび上がってきて興味深い事!「東京湾gurf制覇の野望」というお話がじわじわ低周波のように響いてきます。リストに焦点を当てると覇権の野望が形になってくるみたいで。包囲網のようにも見えます。

長島は江戸川区葛西ですよね。この辺りの事の太田氏の事を調べてみましたら、国府台の合戦で里見氏への寝返りがあるんですね。
この里見氏を助けたのが前記事の北小岩の伊予田堀の篠原伊予・・
不思議な偶然の繫がりにとても驚いています。数多くの気づきや示唆を与えていただいて本当にありがとうございます。
こちらのコメントの方を本文にしたい・・というかもはや学説成立では!?ブログに来て下さる皆様に是非読んでいただきたいです。

あと、昔記事にした千駄木の太田ヶ池(太田氏子孫邸)も汐見坂とか観潮楼と呼ばれるような


Commented by onnbubatta at 2014-02-04 08:39
(続きます)場所に立地していて、東京湾制覇のお話を伺ったあとでは
「脈々と受け継がれる野望の系譜か・・・」と思われてきて本当にゲニウスロキの言葉が全身に充満してくる感覚を覚えました。
普通に歩いても幽遠な空気の流れている場所ですが、改めて行ってみたいですね。

太田道灌の人となり、大河ドラマとかで一度見てみたいです。

所領リストからの考察、本当にありがとうございます!
今後とも何卒宜しくお願い致します。


Commented by 匿名 at 2015-08-13 17:44 x
加瀬山と地元では呼びならわしていたと言っても、正式名称ではないので、通じないこともあるかもしれません。

> 横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれません
とおっしゃるように、日吉や矢上の今は慶応のある(最近では大本営で有名な)丘陵から連なる高台の突端であったことはほぼ間違いないでしょう。
このあたりはすべからく多摩川水系の氾濫の影響を受けたでしょうから矢上川の流路もいつしか削られた山を乗り越えて鶴見川に向いたのか、あるいは人のなせる業であったのかは、今となっては定かではありません。
縄文海進以前に現在の矢上川の流路(あるいは低い部分)があったとすれば、おっしゃるように海に浮かぶ小島のような様相を呈していたことでしょうね。

今の役所の向かいの路地に日吉出張所があった頃に生まれ、最近、閉店になった川崎駅前の「さいか屋」(の食堂)から、加瀬山を遠くに見ていました。
夢見ヶ崎音頭や日吉小唄は、加瀬山で遊ばなくなった頃に、どっかから湧いてきました。(笑)
慰霊塔も今は木の陰ですね。
Commented by onnbubatta at 2015-08-15 16:45
>匿名さま
はじめまして、コメントを寄せていただきありがとうございます。
加瀬山で遊んだり、さいか屋からご覧になった記憶がおありなのですね。
「こんな場所からこんなシチュエーションで加瀬山を眺めた」というお話を伺えるのはとても嬉しいです。レストランのあるデパートだったんですね。残念ながら閉店では同じ状況から眺める事はもう叶わないのでしょうか。
川崎、新川崎、武蔵小杉など周囲の街に大きなマンション等が建って、
加瀬山を居ながらにして眺められる人口も増加したと思われる中、どんな風に見えるのか、またあの高まりの事を指してどんな会話が交わされているのか興味があります。
日吉小唄というのもあるのですね。音頭の方は今の時期どこかしらか聞こえてきているのでしょうか、作られた時期について考えが及んでいなかったので「湧いてきた」という表現の発生感が何だかとてもこの土地に似合っている気がして思わず感じ入ってしまいました。
コメントを頂いて、「眺める場所としての山(物見台のような位置付け)」「眺められる場所としての山」の視点の関係、あのような土地が残った形成要因について改めてじっくり考えて見たくなりました。
今後とも宜しくお願い致します。
Commented by 匿名 at 2015-08-15 22:21 x
> 湧いてきた」という表現の発生感が何だかとてもこの土地に似合っている気がして思わず感じ入ってしまいました。

これについてですが、「音頭」というものは、たいてい生まれる前からあって、その土地に染みついているものと思われますよね。
それに対して、もういい加減、分別がついた頃、確か政令指定都市になった(幸区ができた)後くらいに、音頭と小唄が発表されたんですね。当時はほかにも宮崎台音頭なんてのもできました。
ですから、あとから突然「湧いてきた」んです。(笑)

南加ぁ瀬に北加瀬に、小倉、鹿島田手を取って、さぁさみんなで踊りましょう
よいよいよいとこよいよこせ、日吉よいとこよいとこせ

みたいな能天気な歌詞です。(1番のおしまい)
Commented by onnbubatta at 2015-08-16 11:42
>匿名さま
音頭=町の象徴というか拠り所のような経緯で幸区誕生辺りに作られたのですか。小学校や町内の盆踊りで連綿と歌い踊り継がれて、時間をかけて定着しているのでしょうね。私の出身地にもその小学校独自の音頭があり、今でも歌詞と振付を断片的に思い出すことが出来ます。
歌詞を拝見していましたら、操車場で地理的には分断されてしまった形の鹿島田が入っていて、人々の願いが込められているのだなあと少し胸が熱くなりました。


暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体   その他徒然(適当です)


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