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夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など

「崎」のついた面白そうな地名に惹かれ訪ねてみました。


初めて聞く地名では無く、pcのお気に入りページ最下段にずっと「夢見ヶ崎」を冠したサイトがあったのです。

以前,日吉のまむし谷と「松の川」に繫る暗渠を歩いたあとに
周辺の地歴なんかを色々調べている際に出会ったサイトだと思うのですが

今見ようとすると検出出来ない・・・残念。


夢見ヶ崎地名を擁する「加瀬山」の独立丘の形も異彩を放っています。
孤高のお姿でもあり神々しい。絶対沢山の籠もったものを内包していそう。

現代目に見えている姿は独立丘ですが、時代によっては海に浮かぶ島だったり
横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれませんね。


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左が鶴見川支流の矢上川。
最寄駅は横須賀線の新川崎駅。S55年開業の比較的若い停車場です。











そもそも「夢見が崎」というのが現代風のキラキラネームのような印象を受けるのですが
そうではなく、この地を訪れた太田道灌の故事に因んでいるという事で、
ならばいつ頃からそう呼ばれるようになったのか、また地形の変遷など机上で調べているうちに

やはり現場に行かねば・・・と。

道灌さん。
子供の頃近所に「道灌山」という地名があり深く考えることもなくごく普通に接してきました。
ここ川崎の地でも(いや、関東一円に)足跡や伝承を残していて
改めて不思議な響きを与えてくれるのです・・・


夢見る頃はとうに過ぎましたが、初めての新川崎へ。



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新川崎駅を左に出るとすぐに見える加瀬山のお姿。
手前の工事地帯は新鶴見操車場跡地の一角。

新鶴見操車場跡地は一部が開発されています。





私は「小倉跨線橋」からの荒涼とした風景~広大な空き地の一面のススキ野原とポツンとした箱のようなモデルルーム・・・も気に入っています。



さて加瀬山に登るルートは複数あれど、最初は北麓から登頂する予定。

山には川崎市「夢見が崎動物公園」があり、そこまでの道程にはアライグマのしっぽマークの
サインが路面に貼られているので忠実に辿ります。


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テニスコート沿いの暗渠。
(後々追ってご紹介するかもしれません)




























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長毛種の夢見・キャット・見返り。

「いい夢見ろよ」













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「夢見が崎公園」脇の階段を昇ります。
標高30m余にアタック














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蓋的なものが
































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当然といえば当然・・・

















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一気に登る感じなので息が・・・
















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昇った先は了源寺という寺社や墓地。
いきなり墓地があったので少しの驚きが。

そして山の中に元々は11基(それ以上あったという説も)はあったという5~6世紀にかけての古墳の跡を示す標が幾つかあります。
















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西端の方にあった白山古墳(4世紀後半築造、南関東では最も古い古墳)、第六天古墳は消滅しています。
(白山社・第六天社と弁天社もかつては存在しましたが、大正4年に天照大神に合祀されて現存せず、社地のあった丘も崩されて消滅)



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こんもりした高まりの頂に祠が載っているのが見えますが、蜂がタムロしているとかで見学不可能でした。
(9号古墳&道灌の碑があったらしい・・・です)























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意外に広い空間の山頂には、古墳跡や神社・お寺・墓地・動物園と実にいろいろなものがのっかっています。
東山麓付近には貝塚も。







子供たちの学習用の「日吉のタカラモノ探検」の様々な看板が設置されていて、それを眺め歩くのも楽し。


 「加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島だった」 

そんなわくわくするイラスト入りの説明版もありました。
縄文海進の頃(約6000年前)・・・に思いを馳せると何とも言えない場所に立っているのだと感慨も深いのですが、
「夢見が崎」という健康的で、華やかな明るい地名の音をイメージして臨んだなか、偶々かもしれませんが気づくと山頂公園には思ったより人も少ない感じ。小さい子も遊んでいなかったし。

急に風が起こり、何だか寂寥とした空気が流れていて、「早く下山したいな~」という気分に支配されてしまったのです。

そっち方面の感受性は鈍かったはずなんですがね・


折角昇ったのに・・・山頂の神社群や富士山が見えるポイントもあったようなのですが
早々と等高線の筋を横切って下界へと。


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室町時代の武将太田道灌が見晴らしの良いこの地に陣を敷き、築城を計画した晩に
自分の兜を一羽の鷲に持ち去られたという夢を見、築城を断念したという故事も記されています。




もののふにとって大事な兜。それを持ち去られたのは良くないお告げというか夢占ととらえたのでしょう。

その兜が南の鶴見川対岸の山に埋められているという言い伝えもあるそうです。
(行ってきました。また後ほど)


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地形みたいな雲が出ていました















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トーテムポール、子供のころから好きなんですよねえ。
箱根小涌園に昔あったやつとか。

























南山頂から下界へ降りて行きます

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またすごい張り出した位置にお稲荷さんの鳥居が。
横に階段があるのでそこから降りていきます。












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階段を降りて山の中腹あたり。
下アングルから眺めるのもいいな。上部がすっきりするから



























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道祖神が二体

















そして目に入ってきたのは・・・


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これ。
東京電氣
最初全く何のことか解さなかったのですが、「氣」という「気」の旧字を使用しているので面白いな、旧い
ものなんだろうな~くらいにしか思っていませんでした。

















調べてみると
「東京電気」とは東芝の前身。


明治41年、現在の川崎駅前に「東京電気堀川町工場」(現ラゾーナ川崎)が創業、白熱球等の生産を開始する。工場建設に辺り、大量の土砂が必要となり目を付けられたのがこんもりした加瀬山の豊富な土であった。


①東京電気は加瀬山の南東部分一帯(真下のyahoo地図黄緑アイコン周囲)を買収、
夢見が崎から約4km離れた堀川町工場は非常な低湿地に立地しており、その造成や多摩川洪水被害による工場復旧の為に、トロッコで加瀬山の南東部分(境界杭のある地帯)の土が運ばれ続けたのだという。

山が切り崩された時期、土砂が運ばれた時期については資料で幅があるので、長い期間をかけて順次
山の南東部は形を変えていったということなのだろう。

(マルで囲んだ番号は三枚下の地形地図に対応しています)

土砂が運ばれた跡地は国鉄が買い取り、官舎や球場として整備されたのち、現在は特養施設や庁舎、JR社宅が建っている。

山の南東部は加瀬山の中でも一番の高まり・ピークを有し、現在の日吉交番辺りまで山裾が延びていたという。(真下の地図では夢見ヶ崎公園入口の交差点辺り)

「夢見が崎」の小字名が付けられていたのはこの辺りのようなので(現在は小学校名や公園名、商店街などには残る)、往時の突端だったのだと想像して感慨が深くなります。

(夢見が崎地名については後程綴ります・・・)





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いつもお世話になっている現地の地図看板に小字名が薄字カッコ書きで表示されています(天地が逆)












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これはまたインパクトのある字名・・・字ドブ。古地図では「土浮」とか「土腐」の表示。
低湿地に付けられる呼称として、全国的に分布しているようです。
こちらの近隣では「長ドブ」などの活用形も。





加瀬山の切り崩しはその後も地点を変えて続行されていくこととなります。

①上述の南東部の切り崩しに続いて

②大正15年(1926)には天照皇大神の西側の山が切り崩され、新鶴見操車場の鉄道用地の埋め立て用に運び去られ、その跡には新鶴見操車場で働く人々の住まいになる鉄道官舎が建設された。


③昭和13年(1924)、現在の白山幼稚園辺り、前述の白山古墳があった辺りも、北加瀬地区の軍需工場(三菱自動車)建設用や小倉・木月近辺の住宅地建設の用途の為に使用された。

④矢上川に続くこの丘も北方の埋め立て用に掘られた。
(番号は下の地図に対応)

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図は川崎市のサイトを引用・参考にさせていただきました。
ありがとうございます。








切り崩された場所の現況写真等々、次回以降ご紹介致します。

この地域で稀な「丘」は、豊富な土砂の産出先として近代工業の礎になったということでしょう。


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加瀬山の土が運ばれた、東京電気(東芝)堀川町工場跡地に開発されたラゾーナ川崎にある工場の遺構。
掘ったら加瀬山の土の成分とか検出されるのかな。

事件捜査とかで土の産出先とか鑑定するみたいに。



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「東芝ブラウン管発祥の地」


















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加瀬山から川崎駅前まで土が運ばれていったのですね・・・











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「夢見ヶ崎」という地名について。

文献で出てくるのは江戸後期に編まれた「新編武蔵國風土記稿」の
「加瀬山」の項に、

「(加瀬山の)東方はづれを夢見崎と云。其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、
其夜道灌己がかぶとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所に飛去りしと夢見しかば、此事不吉なりとて
其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎とは唱るよし土人伝ふれども、
外により所なし


「外により所なし」が気に留まる。。。

土地の人たちの間でこういう話が伝わっているけれども、確かな事は明らかになっていない、という意味でしょうか?

また「加瀬山」そのものに関して、北加瀬村の記述に

南加瀬と当村(北加瀬村)の間に突出し、山の中央を両村の境となせり、高さ八九丈、山上は畑を開けり、
其畑の中に四五坪の小高き芝地あり、松樹二三株立り天守台とよべり。相伝ふ往昔太田道灌この所
に城を築かんとせしかど、故ありてそのことやみしなど土民の口碑にのこれるは前村にも戴する山の
条下にあり、さあらんには天守台の唱へは後人の名付しこと論を待たず。」


山頂には、道灌の故事に因んだ天守台と称えられるさらに小高い地があったようです。


太田道灌は室町時代の武将、なので夢見ヶ崎の地名は1400年代半ばから1800年代半ばの間には
いつしか言い習わされるようになっていったのか・・・と随分ざっくりとではありますが考えるに至りました。


調べる過程で、非常に参考になる貴重な御本との出会いがありました。
場所は武蔵小杉の図書館。地価上昇率ランキングトップ・槌音響く武蔵小杉で降りたのはじめてかも。。!
(武蔵小杉と聞くといつもケイン・コスギさんのお顔が浮かんでしまうのです)


慣れない書棚で何気無く手にした小さな古い本「史蹟名勝夢見ヶ崎」。
高橋東秀さんという地元にお住まいの方が書かれた、昭和12年発行された本です。
年月を経ているので、大事大事にそっとめくりながら読みました。

夢見ヶ崎への愛が溢れていて、この地の事をよく知らない私にもその熱い思いが突き刺さるような冒頭から引用、ご紹介をさせていただきました。


夢見ヶ崎の崗の麓に生れて育つた私は、實に明けても暮れてもこの丘の風情を身にしみて来たものです。
それゆゑ、世間からは、やれ夢見ヶ崎狂だの、道灌狂だのと半ば冷嘲的にさへいはれて来たのです。
私は只、夢見ヶ崎の歴史を瞭らかにし、又、この美しい風光を出来るだけ世に紹介して、久しい間の
念願を成就したいとのみ考へたのでしたが、時運は繞って(めぐって)遂にこの丘のある土地が川崎
市と併合しさうして大きな近代工業都市としてはどうしてもこの崗をわれらが安息の場所として考へね
ばならぬやうになって来たのです。そこで兼々考へてゐたことを記念するために、去る九年以来の計画
を実行しようとする其の一のあらはれとして、この小冊子をまとめ上げたわけなのです。・・・中略
唯、少しでもこの丘の面白さ、ゆかしさ、美しさが胸に落ればそれで満足です
。」


いやいやいや。
「夢見ヶ崎狂」ユメミガサキ・フリーク・・それは最上級の褒め言葉です。。。その道を突き進んでこそ。
この丘が好きで好きでたまらない方が、戦争前夜の9年来著そうとあたためてしたためた本、絶対に面白いにきまってる。


川崎の駅から南武蔵の平野を横切るやうに走る南部鉄道に乗つて、鹿嶋田といふ駅近くなる頃、
間もなく車窓に緩やかな形をした翠の深い丘陵の横はるのが眼に映るであらう。それが夢見ヶ崎だ。

夢見ヶ崎、斯う呼ぶと、その名稱(称)の響きからして、人の胸に何ごとか追走のさゞなみを湧かすであろう。
あれは、夢を懐く丘だ。なつかしい夢を抱く崗だ。

此の夢は、誰あらう太田道灌の夢だ。夢と伝えられて居るのだ。太田道灌は、武蔵の平野を縦横に馳驅
して、白雨の滴より数多くの物語を残した熱血漢だ。好もしいきびきびした男だ。
この好漢の夢であった、夢を抱くあの大きな崗よ、誰か、追懐の心を露の如く注がずに居られようぞ。

元の日吉村字北加瀬、同南加瀬の二つの大字に跨る丘なのだ。

試みにこの丘崗に立ち、佇み、膝を組み、雲の去来する彼方を眺めてみよ。
東に、多摩川の清く美しい波が、川原の小石に白く小さな泡を吹きながら羽田の海へすべって行く。
南に、鶴見川の静かな流れがある。
あらゆる木立の茂みから四季不断の武蔵野の風が湧き、丘を渉るいくつかの斜めな路が串通して、
そこに寺と社の風致を見ることが出来る。

・・・丘に立てば、追想の糸はどこまでも続いて行く。」


東秀翁が何歳くらいの時に書かれたのでしょうか。
旧漢字や文語調の言い回しが難しく、字体から想像して読む楽しさを与えていただきました。
反語が含まれる箇所なんて、こちらが興奮してしまいます。

新川崎駅がまだ存在しない頃の、鹿島田駅付近からの車窓風景の描写が貴重です。
そして山上に立つと、多摩川まで望む事が出来たのでしょうか?

私がふと不安に駆られた突然の風は、武蔵野の風が吹き抜けたに過ぎないのかも。
次にまたここに登る機会があれば、もう少しの間山上に留まって、色々思いを巡らせてみよう。

 
そして、上述の「風土記稿」にある山上の”天守台”について、東秀さんの文でも以下のように触れられている

「兎も角、土人の口碑といふ一事が先づ以て光って居る。里伝の発端が、この道灌懸慮に在るとした。
或はさういふ計画であったかも知れぬ。今、天守台といはれる所に、八幡宮の小祠と記念の石碑が
建って居る。」



加瀬山山上に現在立地する了源寺、ここは妙法寺と呼ばれていた時期もあり、ここの当時の住職と道灌は
親しい間柄であったという。

《太田道灌の夢》という小見出しから、風土記の説を引きつつ、夢見ヶ崎という地名が伝わった経緯が記されている。

「・・・さて、道灌はしばしば此処に来ては、丘上に屯営したといふ事である。即ち、想ふに、戦場の
往き還りか、又は時として四辺の状態を探る為の往来か、或は単なる風光を探ってこの物外の交
りを暖める為か、必ずその何れかであったらう。
斯うして土地の相貌に親しみ、馴れ、眤んでは、勢ひ、軍略上の要害地としても充分に考へられた
ことは相違ない。やがて築城せんとして改めて地相を見直すに至ったとの里伝が生まれるやうに
なったのである。」


古墳時代から人々が住み続けてきた丘の良さを道灌も肌で感じ取っていたのでしょう。

ここから先の話は、「夢見ヶ崎」地名の由来として伝わっている部分が含まれているが、本書には
より詳細な評伝も記されている。

「ある夜の屯営の夢に、忽然として羽音を博つ(広げる)一羽の白鷲、陣営に風を起こすよと見る間に、
其所に措いてあつた道灌の兜をいきなり咬へて飛び去った。凄まじく飛び去るなと見送ると、ここから
九町ほどの距離にある駒岡山に、咬へし兜を放し置くと見て、夢は醒めた。

吉か凶か、瑞兆か凶兆か、道灌としては、まことに気にかかる夢である。思ひ迷うて此の夢のさまを
妙法寺の住職に物語り、且つ其の判断を聞いた。
 
言下に答へていふやう、夢は極めて凶である。此の地の築城思ひ止まり給へ。
東の方、大川のあなたに良き地相の所あれば、そこに落着し玉ふべしとある。」


懇意にしていた住職に夢の判断を仰いだ道灌、「大川のあなたに良き地相の所」=江戸方面への
築城がお勧めされたのですね。
未開の地であった江戸になぜ城を築こうとしたのか・・・という古来からの疑問に対しては諸説存在
しますが、その背景としてこのような逸話が伝わっていたことは初めて聞き及びました。

「・・・ここに恨みを呑んで築城を思ひ止まることとした。江戸城が出来上がったのは之から間もない
長禄元年彌生の頃であつた。

加瀬山の夢あつたればこそ、彼の雄渾なる江戸城に着手したものともいへる。

しかし、道灌は、心を悉く此の丘陵から離すことは出来なかった。それほど愛着が強かったのだ。
寛正六年には、八幡宮の祠を、此の頃の天守台に建立したと伝えられる。
天守台といふ名は、前にも述べたやうに、恐らく築城配置の縄張り当初に考えられた場所なので
あつたらう。加之、ここに和歌一首を詩吟せられたのであつた。


さまゞの 眺めも果てずよしや世の 夢見が崎の春のあけぼの

和歌の題に、夢見ヶ崎とあると伝えられるから、いはば、文明五年の彌生の頃にあつて、己れ夢
の不可思議を思って崎の名になしたものか、或は又、此の吟詠ある以前、既に夢見の話が著名
となつて、誰称ふるとなく、加瀬の丘陵を夢見ヶ崎といふやうになつたのを、道灌も亦ほほゑみ
うなずきしつつ、柔らかな春のあけぼのを詠んだものか、何れにしても、夢見ヶ崎の夢は、正しく
大なる覇業の根本を、底から覆がへしたものとなつた。
成らざりし昔の事から、夢見ヶ崎の名に表われる物語を以てその解説の妥当としたものか。
そこに星霜(年月)久しき里伝成長の妙があつて、白銀の如き滴歴を下して居るのである。」
 


東秀翁による夢見ヶ崎地名考、佳境から一気にクライマックスに突入した感じです。
最後の一文の後半あたりは私はよく解りません・・・

道灌が詠んだとされる歌はやがて了源寺の住職に与えられ、色紙一筆がとある家に宝として伝わっている
との事です。

登場する年号:長禄元年(1457)、寛正六年(1465)、文明五年(1473)だけでも16年間に渡り、道灌と当地との深い関わりが推測されます。それ以前に幾度となく道灌は夢見ヶ崎を訪れているとされており、各地を駆け回った太田道灌(1432~1486)の人生の於いても、この場所は思い入れの強い特別な地のひとつだったのでしょう。
(しかし年号が頻繁に変わる)

道灌が生きている間に夢見ヶ崎の地名が既に定着し、離れた場所にいても聞き及んでいたのでしょうか。
それとも時間の経過をみたのち、道灌の故事を引いて呼ぶようになったのか・・・

また、夢見ヶ崎には昔より「二十六夜会」というものが伝わっていたそうです。
道灌の死後、道灌を敬慕する土地の人々が年々二十六夜に月を鑑賞する集いであり、天守台の観月地で
昔語りなどに興じたというもの。

加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません。昼間でも不思議な風を感じたので到底夜になど近づく気がしないのですが・・・


結局「地名考」と言いつつ殆どが引用になってしまいました。。
この素晴らしい本を目の当たりにして、耽溺しています。



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持ち去られた道灌の兜が着地したという、駒岡。
ここもまた山の上(丘ってかいてあるけど)にあります。












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道灌さんの「灌」の字が金へんになってて面白い~。
史蹟の説明版には、江戸城を構成する支城の候補地を選定すべく、加瀬山を訪れたという
史実の記載になっています。









紫アイコン、上末吉小学校辺りが兜塚。
鷲は夢見ヶ崎からほぼ真南の方向に飛んでいき、鶴見川を渡った辺りで兜を落としたようです
(重さに耐えかねたのか)


*****************************

次回以降、夢見ヶ崎周辺の細かい散策、暗渠探しも綴っていきます。
あとは、道灌さんの通った道はここかな~とか。

最初に来た時は右も左もわからず、完全に異端者というか。この土地の香りが思うように把握出来ず。
二回目くらいからでしょうか。やっと「日吉に近いんだ・・・というよりここも日吉と呼ばれていたんだ」みたいな
基本的な地勢が見えてきて(普通の人には当然に見えても自分には何故かこの点が欠落していたのです)。

そうなってくると感じ取る事も見えてくるものも不思議と多くなっていきますね。

旧いものが集中的に点在していて、本当に興味の尽きない土地でした・・・!

最後に「夢見ヶ崎音頭」というのがあるそうなので、抜粋してご紹介させていただきます。

「〽ハア~ 春は桜の夢見ヶ崎よ(ソレ) 中略
太田道灌 日吉の里に 日本一と 折り紙付けて
お城を築く事 決めたとさ
・・・・・」


伝道灌さんの和歌もゆかしくて良いですが
こちらは盆踊りでしょうか。体を動かし移動しながら夢見ヶ崎の地名を口ずさみ踊れるのが
いいですね。
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by onnbubatta | 2014-01-29 12:45 | 神奈川 | Comments(14)

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか

相変わらず順不同・内容も迷走していますが、本年も宜しくお願い致します。
いつもお読み下さり、ありがとうございます。


葛飾暗渠巡礼はまだまだ続きます。


新柴又近辺から。

この辺りは葛飾区鎌倉という地名なのですが、その由来として

○相模国鎌倉郡の人が開発者
○村の鎮守として鶴岡八幡宮を勧請
○北葛飾郡(埼玉県)鎌倉村の飛び地があった

等々、諸説が存在するようです。

話とエリアが飛びますが、葛飾区北部と接する三郷市にも鎌倉のつく飛び地があります。
この話二回目になります・・・

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まるで島のような形状。一部は大場川に掛かっている点でも興味深い。
この辺りは別の地名でも飛び地が散見されます。


元に戻ります。




葛飾の鎌倉辺りは境目がグニャグニャしていて道も内臓を想起させるんだ。
有機的で好きな場所です。




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北総線の高架下が公園になっており、そこにあったカラフルなブランコ。
腕力自慢のパイレーツ的風貌のアニキ(空洞多め)がちびっこを待っています。










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北総線の高架を外れて明るくなりました。
佐倉街道(さくらみち)に出ましたが、この辺り旧道の面影は特に感じられず。
(昔、さくらみちの事は花の桜だと思っていました・・・)

もう江戸川区との区界に近く、江戸川区側に入ると親水緑道を備えた道へ姿を変えていきます。

この辺りの区界線がまた鋸様で有機的な感じ。






葛飾区・江戸川区は掘割が縦横に行き交い、地点での正式な名称がよくわからないものも
多い中で、「帝都地形図」にはっきりと記載されていたのが

「伊豫田堀」。
何てお呼びしたら良いのだろう。いよたぼり?いよだぼり?

スウェーデンの「イエーテボリ」みたいな語感でもある。
愛媛とも関係あるのだろうか。
→北小岩周辺の開拓者に篠原伊豫氏という方がいらしゃいました。元は市川の里見氏の家臣で
「安西伊予守実元」と名乗っていた時期もあったとの事、里見氏が国府台の合戦に敗れたあと、
この地に逃げてきて耕作に従事し、「伊豫田」の新田を開発したそうです。追記
しかし「伊豫田」と呼ばれた地域はここより南西に少し離れた北小岩3丁目、京成江戸川駅周辺。
そこまで水を引いていたのか・・・?う~ん。

田が広がっていたのでしょうね。

文献を詳しく当たった訳では無いため、どのような系統かもよくわからないのですが、(小合溜からの小岩用水系統?)伊豫田堀行ってみます!
というか以前に何度か歩いた事はあったのですが、お名前付いてるのが判明し、俄然再訪したくなった次第
です。
(帝都地形図の古地図は誤記も散見されるけれど)


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帝都地形図で伊豫田堀と記載されているのは、明るい水色の方の線。
青い線は分流していたのかもしれません。










リブレ京成というスーパーを通り過ぎて、江戸川区に入ります。この佐倉道に沿って流れていた水路もありました。

鎌倉新田辺りは近くに江戸川の長流がありながら、明治大正期まで圦樋の施設が無かった為
遠く水元の小合溜から引いた水に頼っていたといいます。
末流の位置に当たる為に炎暑の時期には水が枯れ、また途中の村々からの取水によって
水が届かなかったりと、耕作には不便をきたしていたそうです。。

眼前に大河がありながら遠方から水を引いてくる・・・川崎の鶴見川近くでも聞いたことがあります。
近くの鶴見川が感潮域であり塩分が含まれるために距離のある多摩川からの二ヶ領用水系統用
水を使っていた地域の事を。

・・・閑話休題。


この界隈にしては割と広めの道。唐突感があるいつもの匂いがします。
何か必要以上に広い道路って・・・川跡のかほり。

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ここがもう伊予田堀です。(この表記もあり)
南へ歩いて行くと道幅が次第に細くなってすぼまり感。



























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この分かれ道を左へ行くと


















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暗渠があると黙示してくれます。






























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soon分岐が現れるので、帝都地形図の表記通りまずは左に歩いて行きます。
この地点からまた葛飾区に出戻り。忙しい。











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以前に来た時と大きく変わらない風景にしばし安心。





























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この先は突如として行き止まり。

そこからがまた江戸川区北小岩。
分岐地点に戻ることにします。























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戻ってきます。






























分岐点から、南方向への流れを追ってみます。

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艶めかしい屈曲を見せつけてくれますね。






























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あら、こちらの流れの方が趣度高いかな。

西早稲田の暗渠(いなほ製菓脇)が思い出されるなあ~。こういうこげ茶の木目のお宅が印象深くて。






















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界隈の緑の豊かさに人々の営みを感じます。
















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二つの接した戸口路面にゴーグルみたいなマンホール。
















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神社の脇に出てきました。

「鎌倉八幡神社」




























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突当りが重厚な漆黒の蔵を擁する質屋さん。

ここで明瞭な暗渠痕は失われますが・・・

この先に私のお気に入りの橋跡(正確にいうと橋の名残。。。?)があるので
そこを目指します。


















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一旦柴又街道に出ます。

この道もあまり大きな変化は無く、古い商店もまだ見られます。

























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目印となるお寿司屋さん。
高貴な紫の暖簾が、橋跡への入口を告げてくれるのです。



























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候補者看板の足元に何かブツが見えますでしょうか・・・





























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「重兵衛橋」

これ、往時のものかどうかは定かではないのですが・・・
この形態のが周囲にあるわけでは無いので昔から気になっているのです。






江戸川葛飾は掘割天国なのにね。あ、小岩に一件こういう趣の小規模なのあるので最後にご紹介します。

教えてください、重兵衛さん!


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重兵衛橋の暗渠はこれまた先細りしながら東へ延びています。




























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重兵衛橋の後ろ姿。ゴミのプランターと支えあう日々に哀愁を覚えます。

ここの流れ、古地図で確認すると
お寿司屋さん過ぎて柴又街道を越え、小岩用水とクロスするまでの間、仙蔵橋・勘七橋と人名風の橋が架けられていたようです。



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赤が印象的な冷蔵庫。
廃墟様の中にある鮮やかな色味に自然と引き寄せられます






















青いアイコンが重兵衛橋の位置、
オレンジは仙蔵橋です(写真は無し)


地図を見ていると、(真上の地図緑アイコン付近)この辺り京成本線の線路沿いに
「まんだら公園」というのがありかねてから気になる存在だったのですが、江戸時代に近辺で1499年銘の
「南無法蓮華経」と刻んだ板碑が発掘されたことから、この板碑を「曼荼羅」と称して
この付近を「曼荼羅村」とも呼んでいたのだそうです。


葛飾区役所辺りからずーっと続く真っ直ぐな道、古代東海道(と推定される大道)に向かって歩いて行きます。
(隅田~市川の下総国府を結んでいたそうです。古い呼び名は府五十五号隅田市川線)

現代の地図では「超一級の幹線道路」には見えませんが、きちんと比較的綺麗に東西に繫がっています。
何度か地図で確認を試みるのですが、この道が「○○号線」というのがあまり表記されていない気がします。
勿論ちゃんと管轄があって、番号もあるのでしょうが、なんかいつもはぐらかされているのです。



d0250051_11394046.jpg

鎌倉1-15辺りの暗渠。出た先が古代の官道






























d0250051_11422387.jpg

幾度となく通過した道。
古代東海道・・・なんて初めて知りました

立石の「立石様」(行ってみたい)はおの古代東海道の道標では?という説があります。






















d0250051_11424663.jpg

古代東海道を挟んで、愛国学園お向かいの暗渠道。
ここに架かっていた橋の名前も「喜右衛門橋」。















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橋跡写真のおまけです。南小岩の源四朗橋。これも人名橋


d0250051_10413481.jpg

橋跡の痕跡を示すものが見えますでしょうか?
電柱の根元付近です。















d0250051_1047865.jpg

水路があった当時のものかどうかはわかりませんが
表札を一回り大きくしたようなサイズ感と、「三丁目 源四朗」の名乗りが気に入っています。
漢字が二つ入っているところも。
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by onnbubatta | 2014-01-21 11:50 | 葛飾区 | Comments(2)


暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体   その他徒然(適当です)


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