神領堀東堀の支堀~高野堀を辿る

一応まだ埼玉の新河岸川蛇行歩きの記事は続行しているつもりなのですが、ちょっと足立区の神領堀東堀系統の事を綴ります。

神領堀東堀の支流の工事現場、というか蓋暗渠撤去現場に遭遇したのは随分前の事で、その後の検証はずっと放置していました。
あれほど衝撃的だったのに。

今年になってlotus62様から現地の現状をコメントしていただいたりしているうちに、重い腰が徐々に上がり「足立区暗渠再訪」の運びとなった次第です。

その時点でもまだ様々な水路網(メイン以外の)の名称がわからず、作業がはかどらない日々でした。

そんな折、ふととある「橋跡?」を見つけた事もあり、そこから導かれるように流路や資料とのご縁が進んで
また新たに開かれた視点での水路歩きとなりました。

予想はしていたけれど、10年前の地図持参で歩いてみてより一層の変化の大きさを改めて実感しました


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江北2-4辺り。
木のすのこパレットの下にある石造りの物体が目に留まりました








これは橋の跡では?

反対側を確認します















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向かいは吉野石膏工場の壁なのですが、ここだけ石が露出。

吉野石膏東京工場は1935年(昭和10年)に下沼田町(現在の江北)に開かれた、江北2丁目工業エリアの草分け存在。耐火ボードや遮音壁と一緒にイメージキャラクターのトラさんが登場するCMでもお馴染みです。













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こんな感じで水路が流れていたのかも・・・














と思って、改めて手持ちの古地図資料などを眺めていたら、六阿弥陀第二番の恵明寺の北側を流れる水路が記されていました。
(六阿弥陀詣とか東都六地蔵とか、色々頭の中が錯綜しています)

地図で見ると恵明寺の敷地に池が描かれていて本当はこちらを見てみたくてこの辺りを訪れたのですが(門が閉まっていた)、予想外の小さな発見?に感激。

過去の水たちの声に耳を傾ける事が出来たのかも


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黄色い丸で囲んだ地点が、橋跡らしき物体の残っていた場所。
ちなみに帝都地形図では、周辺の橋として

紫の丸(上の方)の位置には「橋本橋」
紫の丸(下の方)には「恵地橋」
 が記されています。



紫の丸印に示した橋の下を流れていた高速沿いの用水は、神領堀に属するのか、または荒川沿いをずっと囲むように流れていた
「綾瀬川以西悪水大落とし堀」(何だか凄いインパクトの名称。“大どんでん返し”みたいなリズム・・・)の一環なのか、ちょっとよく判りません。

一方で、恵明寺の北側を流れ、橋跡らしきものを残す用水堀ですが、地図上で辿ってみると
以前の記事で綴った「神領堀東堀支線(高野堀)~剥がされる蓋」の流末のひとつに当たる可能性が出てきました。

全ての流路を歩いたわけではありませんが、現状を記しておきます

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江北4-25付近。高野堀が流れていたと思しき場所は公園やピカピカの歩道となっていました













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上流方向(足立西高方面)を臨む。

ちなみに足立西高付近の旧小字名が「松葉」。湧水池のマツバをふと思い出します。

2年前と比べてもう何が何だかよくわからないまでに変わっているのですが、左側の駐車場部分の膨らみが
かろうじて水の流れていた軌跡を伝えるものとなっている気がします。
少し先へ進むと、吉野石膏の社宅が見えてきます。




冒頭の橋跡?隣接の吉野石膏東京工場勤務の方の為の住宅でしょうか。
(世が世なら、高野堀を伝わって水上通勤が出来たのかも・・・)

足立西高の南側の道路も真っ直ぐになり、随分奥に行ってしまったかのような印象を受けました



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こちらは初めて歩く事となった「江北緑道」。
マンション内銭湯の「光浴場」煙突がそびえています。

江北緑道=何となく暗渠でしょ、ぐらいの印象しか無かったのに、『神領堀東堀から分けた「高野堀」の流路跡』と認識して歩くことで水系感覚を足裏がキャッチしてくれそうです。

神領堀自体、見沼代用水系でさらに辿ると利根川ですし・・・




「前略 利根川の(水の)上より」とか独りごちてしまいそうな。


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緑道が途切れて車道と交差する地点。

車道の先の道路、新しい道路と、建替えられた団地のようです。

攪乱されているかもな・・・






















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果たしてその先には。
新旧対照的な光景と。そして途中感の漂う、まだ杭の残る草の生えた空地。
一枚の写真にいろいろな境目があるみたい。





上流方向を臨んで。
















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お肉屋さんの脇(右)に差し掛かります。
ここを出て右へ






























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深緑のガードレールが明示する流れに沿って、商店街が連坦と続きます。
この道は「江北大師道」という古くからの路であるようです。























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歯医者さんの所で左側へ流れ下ります。
古地図によると「前沼橋」の表記あり。数種類の地図を見た中で、いまのところ高野堀で確認できた
唯一の橋名。(もっとでできますように~)

暗渠の香りは少な目ですが


















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夏だ!暗渠だ!ビールケースだ!
・・・という訳で、「暗渠にしばしば連れ添っている物体の中で最も似合うもの」の
ビールケースが彩を添えてくれました。

中でもこれは「積み物件」です


















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吉野石膏工場の脇を通って、左に大きく曲流したのちに、
江北2-1辺りで冒頭で触れた恵明寺の方へと西に流れる一方で、
扇の方へ向かって更に南下していった模様です。








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付近の神領堀東堀系統の、主な水系図。(正確ではないかも・・・)
実際にはさらなる網の目のごとき分化した水路網が。

今回綴ったのは、真ん中あたりの「江北緑道」を通る「高野堀」でした。





◎一番左(西)の緑ライン、立派な緑道として整備されていて(全国の桜の木が植えてありました)、
谷在家の方から綺麗に斜め真っ直ぐに降りてくる水路、こちらは
「中堰悪水落」と「足立区旧町村古道図」には示されていましたが、いまひとつピンとこない・・・
「○○用水」とか「○○堀」としてほしい気が。
手持ちの10年くらい前の地図では開渠で描かれていましたし、こちらの方が本流?よりも地図上における水路としての印象が強く残っています。

◎お隣の薄い水色が「下堰堀」

◎そして一番右が本流らしき流れで、扇2-13辺りまで辿って最後荒川の河川敷にぶつかります。
(旧い地図では「薄本圦」という施設で最後となっている)
その地点も現在はマンションになっていますが、かつては吉野石膏の工場がありました。


これらの水路も点々とではありますが歩いてみましたので、又の機会にご紹介できればと思っています。

と幾つかの水路の名前を書いてみたものの、近隣の方にとっては単に「用水」とか「どぶっ川」だったのかもしれません。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おまけ。

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やっぱりビールケース。
(厳密にいえばビールじゃないか・・)
真相は良く分かりませんが水路の上にスナックが乗っかっているような印象。
堀切菖蒲園駅そばの光景に似ている気がしました。

江北氷川神社参道そば。
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# by onnbubatta | 2014-06-06 17:06 | 足立区 | Comments(2)

志木市の宗岡地区を歩く~荒川の不思議な築堤横堤・菖蒲沼の馬頭観音・固められる水路等

志木市~朝霞市の新河岸川沿い歩きの記事に戻ります。

志木市に戻り、新河岸川と荒川に挟まれた水に縁の深い土地を歩いて行きます

まず目指しているのは、荒川の土手というか河川敷にある馬頭観音群。何度か近くまできていたけれど
未確認でした。

そして、こちらは何度も訪れていて、何の意味のある物体なのかず~っと不思議に思っていた、
「荒川の横堤」。通常河川と並行して築かれる堤が、ここでは河川に対して垂直に入り込んでいるのです。


低地をぶらぶら彷徨います

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以前の記事で取り上げた速度抑制物(ここから至近距離の朝霞沈殿池前にある)より
強烈な外観。
鬼の形相です












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こちらは幅員制限が目的で設置されています。
ここか、ここのすぐそばの道路下を旧朝霞水路(秋ヶ瀬取水堰から朝霞沈殿池へ導水するための水路で、
地盤沈下により通水に懸念が生じた為現在は別の水路が設置されている)が通っている理由で幅員制限が
必要なのかな・・・?

背後のお店もなかなか気になります







ここの前の道路は、おそらくはかつての「中堤」。この道に沿って「中堤用水」も存在したそうですが
秋ヶ瀬取水堰が完成し、東京都への送水管が埋設される際の工事で「中堤」は消滅したようです。
(幾つかの圦樋もそれに伴って姿を消したとの事)


またこの辺り(セブンイレブン近辺)には「落合」という旧い字名や屋号も存在し、もともとは旧入間川と新河岸川が落ち合う所から生じた地名のようですが、また一方で中堤用水と野火止用水の落ち合う場所でもあったそうで、その事との関連も考えられるそうです。(野火止用水は宗岡の上中下に行き渡っていたとの事)

電柱の支線名で「落合」を見掛けました。


付随する屋号として、「小っちゃい落合」というものもあったそうです。
「ちっちゃいおっさん(尼崎の非公認ゆるキャラ)」を思い出してしまう、口語調のいい響きの屋号ですね。


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ちっちゃいおっさん公式サイト

おっさんへの質問コーナーとか、「small middle aged man」と添えられた注釈が面白いです






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華やかな看板。結構激しく本格的なダンスの絵が描いてあります。残念ながら営業していないように見えました。
夜の部の男性料金が不明朗ではあります。









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樋之詰児童遊園で、またこのパイレーツブランコに遭遇。
葛飾の鎌倉の記事で一度ご紹介しましたが、その後足立区の古隅田川沿いにもおはしました。























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以前の記事で触れた、宗岡二中前の「篭島圦樋」からずっと続いている水路と平行して歩いてきましたが
(古い地図では赤野毛幹線と表記あり)、この辺りで水路はぱったり途絶えます。






















赤アイコンが鬼の幅員制限の位置。ここから斜め左下に延びていく、二連の道路は水資源機構の管理道路であり、赤アイコンより斜め右上に延びる道路下に旧朝霞水路が暗渠で存在しています。

地図の北の方で水路が途切れる地点から先、斜め右上に伸びる太い道路の下にあるのが現行の朝霞水路です。
(構造:コンクリート矩形二連暗渠)
18番16番地を横切る水路(画像左下付近)が中堤用水と関連があるのか微かな名残なのか気になっています。



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水資源機構のマンホール

















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ついていきたくなるよね































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東京都の水需要をまかなう、地中の朝霞水路を足裏で意識しつつ歩きます(大義)

古くからあるお宅の外壁が、恐らく剥がれ落ちている過程なのかもしれませんが素敵です







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宗岡樋管。
秋ヶ瀬取水堰で採水した水を堤防を通過させます

ここの近くから土手を登っていけば馬頭観音群に会えるはず









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土手から見えた、おそらく水塚のあるお宅。
左が母屋で、右は屋敷神様と、貴重品を置く蔵でしょうか。











土手に上がって見えたもの もう一つ。。。
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ここここれは、水路を現代的に改修している過程・・・?
手前にはコンパネみたいなものが等間隔に積まれています。
























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奥の方は、固める施工をしたばかりなのかシートのようなもので塞がれているのかよくわかりません。
ここからどういう状態に変化していくのでしょう。
凄く気になります。



















先程水塚に少し触れましたが、水塚を盛る為に家の周囲を掘った跡が「構え堀」のような形状で残っているお宅も昔はあったとの事。近年「蚊がわく」という理由でコンクリートで固めたりしているお宅もあると、志木の水塚を紹介している本に書かれていました。



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そしてありました。荒川の横堤。
上流方からの洪水を食い止める為に、河川に対して垂直に築かれているそうです。

いつも荒川左岸の河川敷から眺めていて、「今にも電車が走ってきそうな、臨場感や疾走感のある不思議な築堤」とかねてから思っていたのですが、右岸から眺めるのは初めてです。

いつも新緑のころや夏場に来ていたので、青々とした築堤が印象に残っていましたが、

冬のこの枯れ感もぐっとくる景色です。ツチノコを彷彿とさせる形状と動物色もいいなあ・・・



そしてそして、かなり年季の入ったポンプ小屋の脇に・・・
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いらっしゃいました!
ずっとお会いしたかった、「菖蒲沼の馬頭観音」













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この付近の小名・通俗名として、「馬捨場」「観音塚」がかつて存在し、耕地整理がされる以前の現河川敷にあたる場所に菖蒲沼という沼(近接して大明神沼・中三在沼という通俗名も伝わる)が横たわっていたようです。



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ロケーションも群を抜いていますけれど、とにかくお顔が魅力的でした。
見る角度によっても全く違ってくるし、年月風雨を経てもなお、挑んでくるようなこの強い眼差しが。





















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今にも声が聞こえてきそうな・・・





























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「てめえどこの中学だよ!?」

・・・私とした事が、言葉遣いが荒々しくなってしまいました
不謹慎で申し訳ありません



更に土手を北に向かって歩いて行くと

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またまた興味を惹かれる小山が土手下に見えました。














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冨士塚?

ここは産在氷川神社(中の宮氷川神社)のなかの「御嶽山」で、この地域が浸水被害にあった際この山に登って難を逃れた方がいたと「水害と志木」の中の記載で読んだ気がします。



















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下の宮氷川神社にあったようなものと同様、上部に空洞部分のある石柱が建っていました。

大分歩いてきたので、神社内のブランコに五分ほど座って一休み。





また、ここのすぐ近くに、お庭に池と太鼓橋のようなものが見えるお宅があって、地図上では神社の表記になっているので気になっています。
(鳥居と、菅原道真風の銅像も建つ)



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河川敷の耕地が、変則的な短冊状に組み合わさって何とも芸術的ですね。
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# by onnbubatta | 2014-05-15 12:00 | 新河岸川 | Comments(4)

板橋区舟渡のワンブロック・蓋暗渠

連休のちょっとしたお楽しみ企画。前回の筋状の水路跡特集に続いて
ここでドルチェ的な記事を。


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場所はこんな辺り。板橋区舟渡
新河岸川に架かる「蓮根橋」の近くです。














いきなり遭遇した蓋暗渠です。

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お行儀良く並べられた煉瓦ブロックが、この奥へと続く世界を明示しているようで。
始まりは黄色いガードレールから。

























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続いて水色のガードレールへと変化






























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君はどこの子?
































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ガードレールは白地に赤へと変化。

端の処理は結構大雑把に仕上がっています。


























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横から、亀裂を鑑賞

















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更に奥へ歩を進めると、ガードレールがふたたび水色に変わり、周りの状況も野生児たる感じがより一層増していきます。
しかもガードレールが派手に傾き始めるし・・・




















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反対の角度から検証すると、台風直後のような様相。
なぎ倒されているかのような。



























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冒頭で「君はどこの子?」と問いかけましたが、置手紙のように「サイ」とありました。














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奥は工場の敷地でしょうか。少し小高くなって行き止まりになりました。
一角のみ残った蓋暗渠。何とも不思議な感じがして、帰って地図を確認すると、舟渡の荒川の蛇行跡(置いてけ堀)に接続していたようです。




















おまけにもうひとつ、こちらは前谷津川系?、去年の秋に見つけたもの。
蓋が白く、両脇も綺麗に舗装されているので、従来はもう少し違った姿で存在していたのかもしれません。。

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板橋区西台2丁目。
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# by onnbubatta | 2014-05-05 14:20 | 新河岸川 | Comments(2)

筋のような、函型水路跡特集。

明確に水路でした、と今のところ言えるのは、以前に記事にしたこちら
板橋区熊野町の水路跡だけなのですが、趣味の部屋的に陳列してみます。

その1
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谷端川沿いに存在。何気に護岸状の石垣や添えられたグリーンも奥ゆかしくて良かったです。
状態としてはほぼ埋もれ。

























その2
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こちらは水路跡かどうか断言は出来ませんが、十条の自衛隊敷地から流れ出る暗渠を追っていて
出会った物件。小規模ながらついていた蓋が途絶えて、筋状の痕跡が見え隠れします。
北区王子新町。
水系系統としては石神井川


















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この曲りざまに、ぐっときませんか。
ちなみに画像左側の石は「陸軍用地」の境界石です。
もう、ドブでも側溝でも何でもよくなります























その3
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葛飾区西新小岩5丁目のお寺脇で出会った物件。一方(北方面)からしか様子を伺えないのですが、
定期的に手入れがされているようで、溝の輪郭がはっきりして端正な印象。























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ズームで奥の様子を見てみると、奥はちょっと落ち葉が溜まっている箇所も。
画像暗いですが、何か秘密の小橋みたいなものが架けられていて
興奮で倒れそうです。




















その4
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ここもその3と同様、北区志茂4丁目のお寺の脇に残っていたもの。
かなり古い住宅地図にこのお寺の南端を通る細い水路線が描かれてはいたのですが
(他の水路跡が一ミリ幅くらいだとしたら、ここはマジックペン程度の細さ表記)
先程と同様、一か所からのみ確認が出来ました。

水路跡(疑惑)の際に佇む黒猫しゃ。様になりますね






※猫は商品に含まれません



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猫ちゃのいないパターン
奥の方は若干の乱れがある模様です
























またコレクションが出来てきたらいいな・・・














2014.11追記(追悼)

筋状ではないけれど、ここも気になっている水路跡。
現存するかは不明(2013夏~秋撮影)←(ゆ様から頂戴したコメントによると、この姿は既に失われているようです。残念。)葛飾区西新小岩3-44辺り。d0250051_1747160.jpg
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# by onnbubatta | 2014-04-29 14:08 | Comments(6)

地中に伏せられ、失われた新河岸川蛇行の名残

大分間があいてしまいましたが、新河岸川の旧流路と思われる蛇行を追い求めて、内間木通りに入っていきます。(2014年2月初旬の訪問記です)
前回の記事では、ピンクのマークの少し上あたり、下の宮氷川神社と宗岡二中の間の蛇行辺りを
彷徨いました。

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地図中の高齢者施設の前を南北に走る道が内間木通りで、周囲には墓地計画があるようでした。
また、「やつるぎ遊園地」という興味を惹かれる小公園が隣接していました











ここから武蔵野線との交差部辺りまでは大型トラックの走行が頻繁で、人が歩行するのはかなり厳しいもの
が実感としてありました・・・



黄色マーク辺りも相当そそられる蛇行の様子が地図では描かれているのですが、前回の記事でも触れたように、道があったとしてもちょっと近付けないような場所が多いのです

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小橋まで架かっている。。。!これは見てみたいなあ。





















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グーグルアースで見るとこのような感じで、ちょっとロマンティックな気分になります。
武蔵野線と旧流路が交わるところなどは満々と水を湛えたような表現となっていますが、(住宅地図では年代によっては湿地の表記がされているものも。)武蔵野線の車窓から眺めた感じではオレンジ色をした不思議な色の細流が垣間見えたのみでした。
大雨が降った後などは全く違う景色が見られるのかもしれませんね。


黄色マークの地点と、黄緑の武蔵野線を取り囲む地点は近付けなさそうなので、紫マークのポイントを目指します。ここには公園があるようなので何とか様子がわかるかも。。。と。



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武蔵野線をくぐって、間もなく見えてくるホテルのような外観の建物。
朝霞市民の憩いの湯「湯~ぐうじょう」。営業はしておらず、路線バスのバス停として現在は機能しているようです。
もう少し階数を高くして、「蛇行跡を眺める展望ラウンジ」とかに転用するのはどうでしょう。。




内間木通りの先には「わくわくどーむ」経由、と書かれたバス停にも遭遇、朝霞市の施設はネーミングが楽し気。



そんなに古い建物には見えませんが、工事に欠陥による大量の漏水を起こした経緯があり、
修復にも費用が掛かるとの事でこのような状態に至っているようです。。。


憩いの湯を過ぎると蛇行した旧流路が見えてくるはず。。大きな窪地にはなっていますが
生い茂った枯草のなかに細流が見えるのみ。



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流れ沿いに不思議な光景がありました。
川に突き出した形で、かつての憩いの湯の駐車場があったようですが、それが金網で仕切られていて
どうやっても道路側から停められないような恰好になっているのです。
駐車場の字の先が窪地です

左の干し草地帯が流路、右の金網内側が道路。

前回も触れた、和光富士見バイパスの収用にかかっているものと思われます。






もう少し先に歩くと、流路に掛かる橋に差し掛かるはずです


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蛇行流路に架かる橋から北方面(武蔵野線方面)を望む。
時折通る貨物車を眺めていると飽きません。
武蔵野線はずっと高架ですが、ここは湿地帯にかかるから橋梁になるのでしょうか・・・
ふとした疑問。




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若干気味の悪い枝の垂れ方






























橋の反対側・南方面を眺めると

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橋の北側とは打って変わって、護岸は綺麗に草が刈り取られて整備されています。
画面左側に並ぶ木々は、内間木公園の南西端にあたります。










蛇行具合が最もきつい辺りを確認するべく、内間木公園の中から(二つの流れが合流する地点付近)
流路を眺めてみると(画面左下辺りの水路は内間木公園東側を流れる流路です)

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流路の先は金属製の管と無数の土嚢を境に失われ、地上部分は整地されています。
そして背後には重機と残土の山、並んだ工事用の衝立。

胸騒ぎがします・・・

下の拡大地図の緑ポイント付近



この先の流路の接続を確かめなくては。
一旦内間木公園から出て、先程の車道に戻り、現在新河岸川が流れている方面に向かいます


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すると、先程の地点と同様にこちら側も管と土嚢が現れました。
当該区間の水路は管の中・地中に伏せられてトンネル状態となっています。

下の拡大地図、ピンクのポイント付近





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地図中の矢印は大体の撮影方向。
紫で囲んだ辺りが、流路が消された大体の区間


















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再びグーグルアースで見ると、実験装置のような流路跡が浮かび上がってきて面白いです









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梯子開渠が再開していました。
この辺り朝霞市のクリーンセンターが隣接しており、空き缶が一斉に回収される音が鳴り響いています。









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葉も花もない時期だから様子が良く見えました・・・





























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地上部分は等間隔に杭が打たれて、更なる工事を待っているかのよう。





























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新河岸川の堤防沿いの水門のような施設を経て、新河岸川と合わさります。













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流路が地中に伏せられた区間を航空写真で確認すると、和光富士見バイパスの計画地がひたひたと
背後に迫っていました。やはり。




黄色いラインより南、新盛橋信号以南は既開通区間となっています。



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冒頭の地図に、大まかな道路計画予定地を書き込むと(正確ではありません)
蛇行跡を狙い撃ちにしたような軌跡が・・・















久保純子先生が、1966年のこの地域の地図を読図され、「・・・新河岸川沿いには、蛇行する旧河道があちこちに残され、竹藪や水田と錯綜している。」と書かれています。

前に記事にした、釣堀として残っている「ひのつめ園」の他、下流にも旧河道を利用した「朝霞ガーデン」という大きな釣堀があります。(ここはまだ行っていないので、今年中に行きたいなあ・・・)



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新盛橋の信号付近から見えた残土のお山。先程の流路が地中に伏せられた工事をしていた箇所の反対側にあたります


















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上内間木の変則的な差路に、小さな屋根に守られて佇む庚申塔とお地蔵様。
古くからの道らしく、すぐ近くには神社や阿弥陀堂があります









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お地蔵様たちと同じ場所(道に挟まれた三角地帯)にやぐらがそびえていました








































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本格的な鐘も付いています。非常時には鳴らすことがあるのでしょうか














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沿道にて、イラストが描かれたブロック塀が印象的な作業場が目に飛び込んできました














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二人の対照的な表情が、見る者の想像力を掻き立てます。
まずもってひげ濃い目の親方風の人物に目が行きますね。

ちょっと能天気な感じの部下の仕事ぶりに不満気な表情・・・?
描かれた背景に思いを馳せます


可愛らしいブロック塀で、一目で気に入ってしまいました。




そして最後にもう一度。

胸が痛まないか。

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潜伏中
昔の流れを忘れた訳ではないのだ・・・


















二か月以上経ってしまいましたが、現地の状況はどうなっているのか気がかりです
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# by onnbubatta | 2014-04-21 12:28 | 新河岸川 | Comments(2)

花見川(千葉)の梵天

埼玉の志木近辺の低地をふらふらしている最中ですが、春の季節要素が色濃い記事を一点綴りたいと
思います。

今は足が遠のいてしまったものの、子供の頃の記憶では千葉方面の事は季節の風物詩として思い出されます。

春先に、花見川付近の柏井からもたらされる竹の子。
夏の稲毛海浜公園プール。この世にこんなに楽しい場所があったのかと。まさに楽園ですね。



ふと思い立って花見川辺りを流れてきました。

ところで梵天(ボンデン)とは何か。このことに初めて触れたのは、足立区の暗渠を彷徨っていた頃、
「足立ブックレット」という地域資料に「足立区のボンデン祭り」が紹介されていたのです。

「梵天」は五色の色紙で幣束を作り、集落の厄災除けを祈願するもので、出羽三山信仰と深く結びつく
行事だとされているようです。


京成八千代台から東へ歩いたのですが

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それほど歩かないうちに見事に顕著な谷地形に遭遇しました。
対岸然とした連続した樹林も相まって、「もう花見川に着いちゃったの!?」と一瞬当惑しました。
歩道橋の辺りが谷底で、ちょうど八千代市と千葉市の市境。
















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しかし道路を挟んでどちらの側にも水やら暗渠の気配無し。こんなに立派な谷なのに・・・

ここについては後々追うことになります。初めての千葉暗渠になるか?

しかしここの歩道橋の錆びぶりは目を見張るものあり。



花見川に至るまでの道、途中からは人が歩いていなくて、形ばかりの歩道というか・・・
垂れ下がってくる竹の葉を手で持ち上げつつ通行した場所もあります。

この辺りは竹藪が多くて、歩道にも竹の地下茎?が越境して各所で盛り上がり、コケそうになりました。
とにかく竹の持つ力に改めて圧倒されます。

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花見川に架かる「柏井橋」。これ架け替え工事中?

花見川を目指してきたはずが、橋のそばには「印旛放水路」名乗りの看板がありました。
訳が有りそうです。





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はじめましての花見川、この地点では渓谷状に見えます。
遠くから見ると、昔の船と船頭さんの姿みたい・・・


























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写真中央付近、川岸に小流が注いでいる箇所にたんぽぽのようなものが見えています。
梵天(ボンデン)を見つけました!






















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川岸で何かを待っているかのような姿。






























千葉県は出羽三山信仰が盛んな地域なのだそうです。
千葉中央博物館のサイトで、出羽三山信仰に関する写真が紹介されており、その中に
おそらくこの場所にボンデンを設置しているであろう様子の写真が掲載されていました。
これはボンデンの中でも「白梵天」と呼ばれるもの。

各地域の梵天の写真や習慣が紹介されていて、どれも美しいものです。
「梵天にみる房総の出羽三山信仰」 で検索するとご覧になれるかと思います。


山に対する信仰・・・で川岸に梵天=神様の依り代、を立てるのが興味深いところです。



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こちらが、集落の入口に立て掛けるという「色梵天」でしょうか。
足元には先代のボンデンが横たわっていました。
里のような静かな集落の中にひときわ映える五色のボンデン。






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木板の塀が印象的で、とても静かな里のような雰囲気の土地でした















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道路わきの、土が露出している箇所に在ったもの。
近づいたのですが、何が刻まれているのかは判りませんでした。
























そして前述の柏井橋の傍にある看板。花見川ではなく印旛放水路と脇に示されていて、
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拡声器=アナウンス
右記=つぎ
危険=あぶない

ふりがなというか読ませ方にうなるものあり。










花見川ビギナーということもあり、まだまだ研究途上。説明はアウトラインにとどまりますが
現状は印旛沼から東京湾まで一本に続いているように見える水路、往古は平戸川と花見川という
別々の川だったものを、分水界を開削する難工事を繰り返した末につなげたものだそうです。
(「あばれ沼の蛇と食」より。)
流域に点在する共同墓地には、印旛沼掘割普請に関わって命を落とした人が埋葬されているとの事。

柏井橋の近隣にも共同墓地がありましたが、近年2m程の白蛇さんが見つかった事で話題になったそうです。


河川管理上は大和田排水機場から東京湾までを花見川と呼ぶそうですが
元々の花見川は犢橋町辺りを水源とする自然河川。今では花見川の支流として位置づけられる「犢橋川」
が花見川の本流であったようで、「首都圏大地震揺れやすさマップ」でも、
「谷底平野の発達度合からして、こちらが(犢橋川)が花見川の本流であったと考えられる」との記載がありました。


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「神場公園」付近の細い流れが現・犢橋川。

古地図(今昔マップ等)で見ると「さつきが丘団地」の場所に四本くらい連続して谷津がぶら下がっているのが圧巻です。













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犢橋川の水路を地図上で辿っていくと、丁度千葉北インターの辺りに調整池のようなものがあるのですが、その付近が源流なのでしょうか。

たまたま「千葉県の謎」みたいな本を読んでいましたら、マツコDX(この略でいいのかしらとふと)さんが
犢橋高校のご出身だそうです。マツコさんもこの川沿いを歩いていたりしたのでしょうか。
・・・にしても、犢橋の犢の字、難しく面白いですね。



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柏井橋の下が「花見川サイクリングロード」になっていて、白梵天を見るために降りてみましたら
橋裏に先程と同じような看板が設置されていました。











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こちらが、その警報器でしょうか。
早押しクイズのボタンのように見えます



























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地図を見ると、花見川を臨む丘の上に水神社があるようなので、寄って帰ります。

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フリースの毛布を掛けてもらっている神様?仏様?















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凄く気になる。プリントの背後に、続きが書かれていたのかいないのか。

プリントが先か落書きが先か。

思わぬ場所に問いが存在しました。








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冒頭で登場した顕著な谷。
「芦太川」という、花見川の支流高津川のそのまた支流の刻んだものでした。
全区間ではありませんが辿りましたので、また追ってご紹介できればと思います。


















ここにきて、川観点で千葉を歩いてみようという気持ちが急速に高まってきている今日この頃です。

ちなみに、足立区のボンデン祭りは毎年4月8日に執り行われるそうです。

そういえば、昔の大河ドラマ「独眼流政宗」で幼き日の政宗の名前が梵天丸だったなあ・・・なんて思い出しました。「梵天丸もかくありたい」って名台詞ありましたね~
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# by onnbubatta | 2014-03-26 12:13 | 千葉 | Comments(0)

新河岸川旧流路遊歩~取り残されし蛇行を見に行く

三日月湖。それは誰しもがふと気になるところ。
あなたの心や記憶にも、今なお水を湛える三日月湖はありますか。。

各地の「暗渠」に光が当てられつつある昨今。
三日月湖旋風も巻き起こりそうな。



前回、志木市と朝霞市を行きつ戻りつする「野火止用水分流跡」をご紹介しましたが、

そもそも志木市に来たいと思ったのは、ふと地図を眺めていて

新河岸川左岸に展開する激しくも狂おしい蛇行の跡を一度見てみたい」と

強く思ったからなのです。

しかもその周辺では「和光富士見バイパス」道路事業が進行しつつある現状。


旧流路の蛇行は数か所ありますが、蛇行の際に位置する「下の宮氷川神社」にも興味があったので
志木市の宗岡第二中学辺りから歩き始めることに決めました。
(携帯で「宗岡」と入力すると「宗男か」と推測調になってしまう我が機種・・)

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流路の変遷を経て、市境界も入り組んでいます。
天狗の鼻のようなポイントも。

新河岸川の「九十九曲り」と呼ばれる蛇行。蛇行している事で流れが緩慢になり水深も確保できて、舟運には都合が良かったそうです。










でもそうなると水害の危険性も当然増しますが
この地域の歴史資料を拝見していると、
「川は氾濫するもの」
という前提で、村を囲う堤防や、水塚を作って備えたり。

また、もう一方の大河である荒川が氾濫すると、「えぐみ」と呼ばれる肥えた土が入るため、宗岡では大変美味しいお米が出来たとの事。

川は自由に流れさせる。

達観しているような、深い深い言葉です。


志木市の低地エリア、こちら側が「志木市探索」にはまった原動力となる魅惑のエリア。

「ゲール(蛙)のションベンでも水が出る」(蛙の小便ほどの雨量でも水害になる)と云われた志木・朝霞低地エリアを歩いて行きます。


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武蔵野線「北朝霞」駅で下車してバスに乗り、宮戸橋で降ります。
余り歴史的な下調べはせず、体当たりで。

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とぼとぼ歩いていると、土手のような形状の路に出て、そこには釣堀の看板が。
「つりぼり ひのつめ園」











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離れた場所からの撮影


















しゃもじのような形の先が市境界を成す旧流路。
その上辺が釣堀として残されていました。

しゃもじの左辺に当たる旧流路(西側・宗岡三小と接する箇所)も釣堀でしたが、平成9年以降に埋め立てられて小学校の校庭敷地となったそうです。

しゃもじの中は朝霞市宮戸。ふるい地名では北井房中袋。

隣の気になる水面は「朝霞水路沈砂池」。
管轄の水資源機構の説明によると、「荒川」の秋ヶ瀬取水堰から取水した「利根川」の水を
ここへ導いて、東京の都市用水の供給・はたまた隅田川の浄化に使用するための施設です。

何だか不思議な説明・・・荒川の水面を使いながら、流れているのは利根川の水だなんて・・・


さて、つりぼりひのつめ園。ここの近くの別の場所にも「樋の詰」という地名があります。
以前、川口市で「芝樋ノ爪」という興味深い響きの地名に出会ってからずっと気になっていました。
用水の「樋」が勿論一番意味として通るのですが、樋、はたたら製鉄関連の地名として伝わる地方もあるとか。川口には「金山」もあるし鋳物とつながる可能性もあるのかな、と推測していました。

当地域における「樋の詰」の解釈として、「郷土志木の地名」に依拠するに、

「いろは樋によって宗岡に注がれた野火止用水が、中宗岡を経て中堤(※現在消滅)
へと流入し、その末尾は新河岸川に落ち込む訳だが、この地はその寸前の灌漑地であり、最も樋の詰(尽きるところ)にあることから、この名が生じたと・・・

ツメ、は先端の意。また市内で見られる資料に日詰、樋爪などの文字も見られるが、日が詰まる→月末の
意であり、廿九日(ひづめ)、つまり毎月二十九日に定期市を開く土地にこの名が多いようである。

また「ひずめ」で馬に関係のある地名とも考えられる。(隣接する地域の内間木=内牧との関連)」


「中堤」や「樋詰」については後々また登場します。

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冒頭で「土手のような路」と書いたのですが
その後調べてみたら、「新田場堤」と呼ばれ、村一帯を水害から守る輪中のような堤防の一環で
江戸時代に築かれたものだそうです。




すぐ上の地図では、真ん中より少し上に横断する道。荒川の土手まで弧を描くように続いています。
この道を歩いてほどなくして、

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建設中のバイパスが堤を斜めに横断していました。
ここは工事事業の「モデル区間」とされている箇所。












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赤いアイコンの辺り。
斜めに道路計画があり、用地が確保されている区間がある事がわかります。





和光富士見バイパスは川越街道(254号線)の混雑解消の為に昭和50年代に計画され、
当初は二層式の合計8車線の予定だったものの、その後の経済社会情勢を勘案して
2008年に新たに平面4車線の構造を採用したとの事。
(見直し理由の一つとして、宗岡地区の地盤が軟弱であり地下水位が高い事、流域下水道管の本管等大規模埋設施設の存在が判明した、との資料有。。最初から判りそうな気も・・)



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ピンクのマル囲み区間までが既に開通していて(オレンジの道路)
その間の区間が現在工事中や収用中という事でいいのかな?















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予定ルートの別地点で見かけた反対看板。(おそらく計画改定以前)
立体構造の上段高架が自動車専用の4車線、下が国道4車線。
この絵柄のトーンもちょっとホラー入ってるかも・・・












この道路が整備される事で国道254号線川越街道の混雑が解消され、周辺の生活道路への
車両の流入を防ぐ事が可能になる等々。
それに関係あるのか、この辺りでは車に対するヘビーな「速度抑制物」が見られます。
これはその中の「狭さく」タイプ。近くの荒川沿いにはハンプと呼ばれる段差もあります。

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これとか。
エルグランドは一旦停止してから徐行して通過していきました。













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ああ・・・






























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????・・・!





















相当のダメージを受けています。







宗岡第二中の所まで歩いてくると、江戸時代の堤を歩いているわけで、真ん中(道路)は盛り上がって
両端は低くなっています。

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新田場堤。堤の両斜面に沿って木が植えられています。
右側が中学校。


























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あらあら・・・
ちょっとネグレクトされている感じ・・・
「応急処置」がいつしか「本処置」になってしまった感。


























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ミミズのようなポンプが突っ込まれていました。




























堤下の水路に、石造りの思わぬものを発見!

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「篭島門扉」。
石造りのアーチ型樋門として県内唯一のもの・・・
そんな水遺構に偶然出会うことが出来ました!感動。
「明治28年5月」と刻まれているそうです。字が刻まれているのはわかりました。

こちらは堤内側。


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旧堤防を挟んで、堤外側に当たる中学校入口にこんなお知らせが。













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覗いたけれど、残念ながら見えませんでした(泣)












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後で調べると、「堤外側の水位が上がると水圧で自動的に閉鎖する観音開きの門扉が設けられていましたが、現在はその前面に昇降式の扉(金属製)が取り付けられており著しく原型を損ねています」





河川の堤防には所々に水路(雨水・農業用水・生活排水・悪水)が貫通しており、これら堤内水を川へ流し出す働きをします。普段は開放され、川が増水した際は扉を閉めて逆流を防いでいます。

こうした「堤防内を貫通する構造物」はかつては圦または圦樋と呼ばれていましたが、近代に入り
門扉・樋門・樋管等の呼称も加わりました。(志木市の宗岡周辺ではあちこちで見られます。前回記事の
田子山樋管もその一つ)現代では樋門・樋管が一般的で、より大規模で堤防を切り、上部が開放されている
ものを水門と呼ぶそうです。

さて、新田場堤の北側の水路はいつしか蓋暗渠に変わっていました。

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土手に沿って植えられているのは桜?
また来てみたいなあ・・・




























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土手際に小さな祠と鳥居がありました。
場所は「新田治水広場」という小公園脇。













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ここを右に入っていくと、中学校に沿った水路も見えるし氷川神社にも行けるはず。














ちなみに・・・
左向きに天狗の鼻のように突出している市境界の箇所は水路跡の溝としては残っていましたが、
訪問時は水の流れは無し。奥が社有地に面しているので辿れません。
また周りは杭が立てられており、道路の収用地となっている様子でした。


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水路跡の境目がわかりにくいですが、現状このような感じ。
天狗の鼻の上下とも似たような状態です。
こんな近距離で蛇行するなんてもうどうにかしてるね。
























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すみません、話戻ります。紫アイコンの地点を入ったところです。
おお、うねるように中学校に沿う水路です。
ここも新河岸川の旧流路にあたるのかな・・・?
古地図の時期によって、微妙に流路が変わっているので正確な所はよくわかりませんが。





ある時期では、宗岡二中の敷地北辺をホールドするような形で川が巻いている地図も
ありました。

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川床の半分以上に土が堆積して草が生えています。





























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下の宮氷川神社の入口にあった四本の柱のようなもの。
その全てに長方形の穴が開いています。









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珍しい「北面の神社」との事。
宗岡は、上から下へ向かって村が開けていき、観応二年(1351年)に鎮守も上から下へ分祀され創建されたのがここ下の宮氷川神社。
上の氷川神社に対して「下の宮」と云われる由縁で、当社が北を向いているのは上の氷川神社を向いているのであり、このような配置からは、向かい合った神社の恩恵を受けて村内が守られるという、当時の人々の願いが感じられるそうです。


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一堂に会す水の神様。
水天宮は確認していませんが、他の水神様は背面に天保・明治・嘉永期の銘が刻まれています。










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神社の背後、写真左奥の道なきところの行きつく先に地図では池のような水溜まりが見て取れるのですが
手前が山のように盛り上がっていることもあり確認できません。




googleの航空写真でも水面には見えなかったので、通常は水が無く、雨の時にできる池なのでしょうか。

その池のような沼のような地点も、バイパス用地にかかっているようですが(朝霞市に属する)
現状歩いた範囲では明確な変化は確認できませんでした

そして先程の石の柱には「昭和拾年」の銘がありました。


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あれあれ、護岸に何か引っ掛かってるよ!?














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まさかの・・・
大八車!?

収納場所なのか、「見せるインテリア」か、微妙な均衡で滑落しかかっているのが寸止めされている状況なのか。憶測が広がります。



そもそも学校の備品なのかどうかも。
技術家庭の時間に皆で力を合わせて作成した大作とか!?・・・
大八車、若い方はご存知ないかも。。。?


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いても何ら不思議ではありません。
ぐらいの境地に至ってきました。












新田場堤に戻って、東の方へ歩いて行きます。











↓そして次に堤防上で見かけたのがこれです。最初は通り過ぎたのですが、気になって引き返しました。
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竹藪の脇にハンドルみたいなものが。
水門かな?





























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これは、先程見た、篭島門扉のような施設では?と思い、堤防を挟んで反対側(堤内側)を見ると。。

こんな場所で煉瓦造りの歴史的遺構を目にするとは思ってもみませんでした。
(静かな農村、という感じでしたし)

「明治33年6月」の銘が見えます(写真では判りづらいかも)

残念なことに、現役で稼働しているものではないようで、ごみ袋(かな?)が堆積しています。


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ハンドルの真下は畑地になっていて、遺構の姿も確認しづらくなっていました。

明治時代の煉瓦造り樋門遺構がこういった現況・・・






こちらの遺構についても調べてみました。
名称は、「新田圦樋」。ハンドル操作による上下昇降式門扉が設置されているとの事。
ハンドルは新しいものに見えたから、もしかして動かす時もあるのかな?と淡い期待。

場所は篭島門扉の東300m程の新田場堤。

ここからは内間木通りという古くからある道を南下するのですが、付近には残土の処理場のような施設が
多く大型トラックが頻繁に行き交い、人の歩く所ではないかも、というのが正直な感想。
土埃も凄くてマスクが必要です。


一気にご紹介しようと考えていましたが、画像量が多くなり全体の分量もきつくなってきたので
次回に続きます・・・
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# by onnbubatta | 2014-03-13 17:05 | 新河岸川 | Comments(0)

慶応志木高校北側から始まる野火止用水分流(浜崎流末)の蓋暗渠(ヒューム管露出地点有)

慶応志木高校の北側から、谷戸地形を利用されて流されていた
野火止用水分流跡暗渠(浜崎流末~名称は「郷土の地名」の地図ページに拠りました)を歩いてきました。

暗渠の好きな方なら必ずハマるであろうエレメンツが充満していました。
ここ数年の中では最も興奮した行程。

d0250051_13312727.jpgあ、ちょっと違う所に赤いフラッグ立っちゃった。
慶応高校左上の箇所がスタート地点です。






















d0250051_1693841.jpg慶応志木高校から新河岸川にかけて切り込まれる谷戸を利用して、野火止用水が通っていました。
野火止用水は玉川上水から、飲み水にさえ事欠いたといわれる当地へいくつかの分流を経てはるばる引いてきた水。





「貯水池」は後程、かなり後の方で目印として登場します。



慶応志木高校敷地内にもこの野火止用水分流が素掘りの水路の形で残されているとの事。中に入って見学したかったです。(どう見ても慶応の保護者には見えないと自覚)
塀に沿って歩いて行きましたが、敷地の広大なこと。武蔵野の森の面影を今に伝える貴重な空間という印象を受けました。
ちらっと騎馬像みたいなのが見えて「誰かしら?」と気になったのですが
帰って調べてみると「牧童像」でした。更に沿革として、慶應義塾獣医畜産学校・慶応義塾農業高校を経て
今に至っていることを知りました。納得。


慶応志木高校の高翔寮・友隣寮・跡地に建つマンション脇の緑地「慶応ふれあいの森」から
歩いて行きます。「慶応高校前」バス停至近。

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右方向が高くなっていて、たぬきが生息していた事から「大原ぽんぽこ緑地」と名付けられています。
左側は更に低く谷戸地形になっており、元々あった谷戸を利用して水を引いていたのでしょう。
古い地図で確認すると「宮戸境久保」と呼ばれる朝霞・志木の市境を成す谷戸になっており、
現在でも「谷津地児童公園」等としてその名を残しています。






↑舗装してあるけれど、山の土が流れてきちゃったのかな。



d0250051_1628281.jpg橋跡を連想させる



































d0250051_1603536.jpg道路と最初に交差する地点で、今まで歩いてきた水路跡を振り返ったところ。(北・上流を向いて。)
コンクリート造りの四角い構造物の上に、微妙に盛り上がったマンホールが乗っかっています。
水を想起させる構築物。


















次の交差部までは通常の側溝のようなさらっとした蓋が展開します。
それに続いて表れるのがこんなタイプの遺構。
d0250051_1624527.jpg片側コンクリート蓋に縁石が沿っていきます。
色々途切れがちな意匠も味のうち。


























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続く交差部にて、我らを導く芳香が。
コンクリート敷石に鎮座するマンホールが、座布団に座っている遣り手婆さんの如く。
そしてその奥にある水路を明示しているのです。



















d0250051_1675027.jpg魅惑の小蓋の始まり。はあはあ。
ちょっと息も絶え絶え。倒れそうになります。
わかっているくせに。。とつぶやいてみたくなります。


















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蓋の上を歩くとかぽかぽと音が響きます・・・
なので脇の土の方を歩いてみたり




























d0250051_16124572.jpg少し歩き進めると、左側(西側)との間が再び明瞭になってきます。
前述のように、元々あった谷戸を利用しているのですが
水路は一段高い所を通っているらしいのです。



これが私を惑わせるもので、初めて来たときは新河岸川への落ち口、つまり下流から
遡上したのですがそのまま谷戸の底を歩き通してしまい、この野火止用水分流跡には出会えませんでした。










d0250051_16151583.jpg民家の車庫部分が張り出している箇所に差し掛かり、一区間蓋暗渠が途切れて
階段を降りることになります。
これは上流側を振り返ったところ。






















d0250051_16173645.jpg数メートル民家の車庫部分を歩いて、短い階段を昇り再び中腹の用水路跡に戻ります。
素敵な保育園ライフが約束されているんだろうな。
























d0250051_16222191.jpg上流側を向いて。
この辺りから崖側の管が目立ってきます。
右側の蓋脇には護岸のような構造物も。




























d0250051_16231231.jpg護岸?カーブのついた外枠の名残のようなものも恰好いい・・・
次から次へと変化があり、歩いていて気分が高揚してきます。

























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千手観音がくねくね踊っていました。





































d0250051_16265615.jpg先程の階段以来、久方ぶりの外部と連絡地点。
崖上に通じているのは多分この地点のみ。
ここでは崖下にも降りる事が可能です。

此処から先は、隔絶された水路跡を究めていく感じ。
修行僧の心境に至ってます・・・

この階段地点を境に、蓋脇の状況が土→石混じりの土、と
変わっていきます。










d0250051_17132062.jpg砂利砂利している中、周囲は家々のベランダが向いて裏手感が漂ってきますので
真っ直ぐ真っ直ぐ早足で進みます。
























d0250051_17153838.jpg犬とか連れて歩いたら怪しくないのかも。犬欲しい・・・
でもここはれっきとした野火止用水分流跡!歴史散歩しているんだ~
























d0250051_17193257.jpg艶めかしい屈曲の凹み部分には、崖にひっつく「サルノコシカケ」のような構造物(自然物?)とグリーンの桶。


























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d0250051_17301912.jpg継ぎ目の蓋、交換してありました。
真ん中に挟まれし新入り、いつしか両隣のようなグレーに染まっていくのでしょう
























d0250051_145942100.jpg曲線美をとくと堪能。
ここの駐車場、ずっと残っていてほしい。






「崖下にはやはり駐車場だよね」。と独りつぶやきたくなる。



d0250051_1445353.jpg再び、蓋に沿う外枠が姿を表してきました。
飽きさせないなあ。

こういう細かい造りの観察が楽しくて、歩き疲れを一切感じません。
脳内から麻酔みたいなのが放出されているのかも。

ハイテンションで進んでいきます。














d0250051_17363890.jpg擁壁やや崩壊箇所































d0250051_14464438.jpg崖下が駐車場なので、視界が開けている場所。
中でもこの場所は日も当たるのか、植物が生えています。

現在地水路敷きながら、擁壁が白に変わると、地中海の島のような明るい雰囲気が漂ってきます。

















d0250051_16185771.jpgこの箇所は航空写真から見てもうっとりするうねり具合。
竜やら蛇やらが優美に、自在にしなっているみたいですね。
画像がちょうど雪化粧していて、カーブが引き立ちます。






d0250051_1554434.jpg壁面から管が斜めに差し込んでくる地点。
蓋と土との境目が曖昧になって埋もれかけています。


























d0250051_1511042.jpg擁壁壁面が幾何学模様になり、接地面には崩れかけの枡のような構造物がありました。
蓋もやや乱れ気味に連続しています。
そして、写真でもわかりますが蓋脇が未舗装→舗装面へと一瞬切り替わります。
(ここも境目は曖昧。)















d0250051_159941.jpg















先程までは水路敷きより一段低い場所に貼り付くように駐車場が伸びていたのですが
この辺りから戸建街になり、谷戸に面しては貯水池も見られます。

この先が、この暗渠のクライマックスとなっていきます。
突如としてヒューム管が露出している!

d0250051_15232598.jpg蓋がいきなりコンクリート製のヒューム管へと変貌したのです。
行きつく先には四角い排水溝が待ち受けて。
起承転結のまさに「転」。
聞いてないよ!






















d0250051_15274892.jpg冷めやらぬ興奮をなんとか抑えて排水溝までくると、これまでにはほぼ感じなかった勾配ぶり!
ヒューム管ごと急坂を下るとは。(僅かな区間ですが)























d0250051_15354368.jpgほぼ平らに置かれたヒューム管と斜面に置かれたヒューム管が、排水溝で中継しあっているさま。



























d0250051_15385275.jpgヒューム管上部の継ぎ目観察に浸ります。

ここまで斜面の中腹をほぼ平坦に歩いてきたのに
最後にこんな形で高低差を体感するとは。























d0250051_1545320.jpg

ヒューム管を過ぎると、蓋暗渠に戻って両側には家々が建ち並びます。
上流側を向いて撮影。緩い傾斜の暗渠風景になります。

ここは日当たり良くて明るい。























d0250051_15243353.jpg

更に下って、再び上流側を振り返った所。ここまでくると完全に平坦な低地で
ゴール間近。大分長くなりましたがもう少しお付き合い下さい。






















d0250051_15275952.jpg

ここで二手に分かれていました。右が下流方向。
初回訪れた時はこのT字路のTを進んで遡上してしまいました。
そうすると谷戸の底だからなのですが・・・





















d0250051_1534598.jpg上流側に続くこの蓋暗渠を辿ると、






























d0250051_1534880.jpg路面がコンクリート蓋から、インターロッキングブロックに変わって、先程話題にした貯水池の所に出てきます。
ここで蓋暗渠は終焉。(始まりでもあるけれど)
ちょっとした緑道のようなスペースとなっています。





緑アイコンが分かれ道のT字路、赤アイコンが貯水池。
地図右方向が下流で、右下のうねっている道がずっと辿ってきた(ヒューム管などがある)水路敷。



引き返して、新河岸川の合流点まで歩いて行きましょう。

d0250051_16265788.jpg

ボートが立てかけられていました。
暗渠が好きなのは、本体もそうだけど、傍らのこういう無造作感。
前後の文脈を超越した唐突感。








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公園の遊具のようにタイヤが縦に並ぶ。
現代の護岸よろしくと言わんばかりに。
ここは今回の暗渠道で一番広い空間。
























d0250051_16311019.jpg

蓋暗渠は、しばらくハイスピードで屈曲を繰り返して行き
ちょっとした混沌空間に差し掛かります。


























d0250051_16344062.jpg

蓋の上にフリルのような影が連続して落ちていますが、
なぜか脇に洗濯槽(鉢として転用されている)が陳列されていた事によるものでした。


























d0250051_1638899.jpg

































d0250051_16425743.jpg

ようやくゴール地点です。
突き当たった先は富士道という古い道?
富士道はここから登り坂になるのですが、ちょうど登りはじめに焼き団子屋さんがあって
旅の始まり感が盛り上がります。
峠の力餅みたいな。

















d0250051_16464918.jpg

マンホールだらけ。
原子核のモデルを思い出します。














d0250051_16475322.jpg

田子山樋管という施設に接続されて、新河岸川への落ち口となります。
さらに新河岸川を樋管で横断して渡っていた箇所(市役所の方)もあるのですが、ここは違うかな?
対岸にちょうど水門も見えますが・・・







玉川上水の水がここまで届いているって・・・
私は玉川上水の取水口から歩いたわけではありませんが、改めて昔の人が築いた大いなる遺産を
目の当たりにし、足裏で感じ取り、感動に震えそうになりました。


d0250051_1714972.jpg谷戸の縁にあたる部分(雪が残っている南側斜面・崖の中腹のような箇所)に用水が流されています。
谷戸の中央辺りの市境線付近が谷戸自体の底であり、現在は道路になっています。



ちょっとこの点で惑わされたりして、翻弄されたファムファタルのよな小悪魔暗渠でした。


・・・余談ですが、慶應義塾獣医畜産学校、ルーツは神奈川の蟹ヶ谷だとか。
蟹ヶ谷行ってみたかったので、このご縁で歩いてみようかな・・・とそわそわ。


当分の間、この辺りを彷徨う事になります。



~~~追記:初回訪問時は前日の雪で別世界でした

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# by onnbubatta | 2014-02-28 17:19 | 新河岸川

夢見ヶ崎周辺を歩く~加瀬山掘削地点・水権現・加瀬堀暗渠・谷戸地名ほか。

暗渠を辿りつつ、夢見ヶ崎周辺を前回より迫って歩いてみたいと思います。
「加瀬堀」暗渠と「谷戸」地名については、後半の登場となります。

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新川崎駅を出て左(西)、鹿島田跨線橋脇の水路跡。
新鶴見操車場跡地に建ったマンション群によって、さらに窪に深みが増しているようです。

刻んでもないのに、刻まれているという。→ポエム

此処を出て、前回少し触れました「テニスコート脇」も抜けると
(テニスコートも暗渠と仲良しだと思う・・・ゴルフ練習場のように)








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川崎市立の日吉小学校脇を片側ガードレールに隔てられて展開していきます。




























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こういう所には必ずいらっしゃいます。

















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お姿はこんな感じ。
つやつやした御榊が供えてありました

この先暫く、小倉用水の暗渠道と寄り添う形で進みます。
























d0250051_15222338.jpg

加瀬山の山裾エリアに足を踏み入れてきています。
夢見ヶ崎目前で道がこんもりと盛り上がってきました。(気持ちも)


麓感が高まるのですが、このこんもりは一瞬で盛り下がるのです。
地形をいじった痕跡かも・・

同様のこんもり体験はさらに南麓のほうでも体感できました。


ガラスの建物は日吉庁舎。







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加瀬山の山裾を物語る何かかもしれない。
このあからさまな盛り上がりは。

信じている。






























濃い青線が今歩いてきた水路跡、明るい水色は小倉用水跡(後述)、
オレンジの囲みは大まかに加瀬山の削り取られた南東部分であり、加瀬山の最も高かった地点
d0250051_15291198.jpg

















・・・地図に水路線を加えてて改めて思い出したのですが
今歩いてきた水路跡(上の地図濃い青線)、「横浜水道跡」の通ってた辺りと近似しているのです。
「横浜水道跡」が示された元地図(幸区まちカルテの中の、大正時代の二ヶ領用水のすがた)の複写が
ちょっと広域で見づらいのでアレなんですが)

横浜水道は、横浜に送水するために明治初年二ヶ領用水(鹿島田の堰付近)から分水して、
夢見ヶ崎~江ヶ崎~鶴見~子安のルートで水路建設工事が始まったものの、木樋菅の継ぎ目から水が漏れてしまい、横浜まで水を届ける事なく工事が中止となった。現在の操車場内に当たる土地には横浜水道建設
の過程でつくられた「砂溜池」とよばれる池があったという。

三菱ふそうの工場内を線路に平行するような形で南下し、日吉小を貫通してその先で少し曲り、
小倉小の東を通って鶴見川に達するまでの線で上記の資料には示されています。

d0250051_11521210.jpg

資料を参考にざっくり示すとこのような感じ。
歩いてきた水路跡と広域でみるとほぼ重なるけれど
感覚的にはう~ん・・・




横浜水道と何か関連のある道なのかな?
よくわかりませんでした





ここから、西にグイッと曲り昇って加瀬山に再度アタックします。

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片隅に、水に関係のありそうな石造りの何か?を見つけました。
これは何なのでしょう?枡のような?




















d0250051_15463231.jpg

おしみず坂。右が加瀬山の山部分、左は削られて急激な崖地様を呈しています。
削られる前までは山上に通じる鞍部のような登り坂でした。
























d0250051_15515843.jpg

坂を昇る途中の右手にお地蔵さまと南加瀬貝塚の碑。
加瀬山が海にぽっかり浮かぶ小島であった時代の名残か、貝殻の9割がはまぐりであったとの事。
縄文人、焼き蛤でも食べていたのでしょうか・・・

お供えのぬいぐるみが色を添えてなお可愛い。
人面花瓶も。












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ちょっとした階段を降りて行くと小さな祠が。






























d0250051_1554687.jpg

水の権現様。
「尾」の次の字は何だろう・・・「眥」→この字で「し」と読むようなので
「尾眥水」これで「おしみず」?

おしみず坂というくらいなので
清水が湧いていて、その水の畔にいらした神様なのかなとも。
















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庁舎の駐車場、この一角も削られたような匂いはあります。
(水が湧いてそうな感じも)

この場から眺めると、長さ750m余りという加瀬山の東の端っこ感が
伝わってくる気がします。






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削られた部分がよくわかる場所。
ここの土が大量に切り崩されて川崎駅前に運ばれ土盛りされて東芝堀川工場の礎となりました。
削られた山肌側には防空壕が作られた時期もあったのだそうです。

跡地には国鉄新鶴見球場。

此処に立つと球音が響いていた時もあったとは。


現在は公園・高齢者施設・マンション・社宅等が建っています。




d0250051_1692171.jpg

削り取られた跡を埋めるように建つ官舎






























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前回のブログ記事にもあった夢見ヶ崎稲荷神社手前まで、結構鋭角的に(躊躇なく)削られています。











次に大々的に掘削された加瀬山北西部に向かう前に、冒頭のほうで触れた小倉用水跡をご紹介します。
夢見ヶ崎の南辺り、地形は平坦な場所にあります。



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現在の姿はこのようなサッパリとした緑道。
今の小倉小学校近辺には「小倉池」というため池があり、江戸享保年間に当地に二ヶ領用水が分流され
元々あったこのため池とつながり小倉用水の一部のような形に。

近くに鶴見川の大河を見ながら、河床が低く水を引けなかった土地。小倉用水がこの地の水田を潤し、
幸区一番の石高を示した。
また桃やビワ、イチジクの栽培も盛んであったという。

しかし近隣の宅地化の進行に伴い、戦後の昭和27年に埋め立てられたという。

小倉池の伝説として「禁断の玉手箱」というものがある。
鉈を池に落としてしまったヨンキおじいさんが自らも池に落ちてしまい、行方不明に。
三年後、本人の法事中に池の竜宮城から玉手箱を携えて元気に帰還。

ここからは展開が容易に想像つきます。玉手箱を開けてしまい、帰らぬ人に。
「見ちゃダメ、開けちゃダメ・・・」で悶々としたのでしょう。箱には龍の鱗と小さな観音様が入っており、
近くの無量院にはその伝承に因んだ竜燈観音が祀られているのだそうです。

また近隣の小倉神社では水神様として河童が祀られているため、毎年7月にキュウリをお供えする「きゅうり祭り」が行われているそうです。

今は年間通してキュウリが手に入る時代・・・キュウリの盛りの時期に改めて気づくし面白いですね


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いつもお世話になっている街の地図看板には、小倉用水がまだ水色の水路線で示されていました。
(町界のところ)

池附、という字名も見えます。






加瀬山の北側へ向かいます。

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北加瀬の「山崎」バス停そばにあった庚申塔

この看板、他の場所でも見ましたがお堂を守護しているような目つきが
気に入っています






















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山崎、も加瀬山につながる字名でしょうか。






























d0250051_15184251.jpg

近くにあった地図看板、旧字名が記されているのが有り難いです。













 そして、加瀬山北西部へ。

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更地の奥がJRのマンション。順番に建替えしているのか、この更地はどう利用されるのでしょうか。

かつては左の加瀬山はここの更地部分にも山裾を拡げていたことでしょう。
今は分断されて階段が見えています。


新鶴見操車場で働く従業員の社宅「北加瀬国鉄官舎」のために切り崩された箇所です。
ケーキの断面を見ているような心境。

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上空からの画像で見るとこのような感じ。
加瀬山南東部よりも更にスパっと切り込んだ印象を受けます。








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現在の北西山裾

加瀬山は北鹿・南麓とも本当に際キワの箇所は、広い地所を有する旧家?が張り付くような形で囲んでいる
のでなかなか裾部分を視認することが難しいなか、この周辺は麓や断面を見ることが出来ます。


続いて、ここの西に隣接した掘削地点、現在の白山幼稚園辺り(水色)
d0250051_15385353.jpg

水色エリア周辺は白山古墳や第六天古墳が存在した場所ですが、民家が建て込んでいたりして
様子を確認することが出来ていません。





白山古墳の裾、白山幼稚園西辺りから出土した秋草文壺(国宝)は国立科学博物館東京国立博物館に収められています。

また、矢上川に面した辺りまで延びていた山裾を掘削した箇所(紫色)、
ここもはっきりとは痕跡を感じ取ることは出来ませんでしたが、昔の地図と重ねてみると
二区画程、周囲とずれて斜めに配置されて家が立ち並ぶブロックがあるので
そのあたりなのかな、と推測します。

d0250051_15451294.jpg

ただ水色掘削地点に関して、この南北に通る道が途中マドレーヌのてっぺんみたいに盛り上がっていて、私の足裏は山の痕跡を感じて小躍りしていました。
写真では判りづらいかもしれませんが・・


ここの土砂(古墳があった場所・・・)は昭和12~13年、三菱重工業の埋め立て等に使われたとの事、
すぐ近くにある加瀬山北の現三菱ふそう、(ここは元々三菱重工業)のことを指すのでしょうか?
道路を隔ててお隣の埋め立て用に供されたのでしょうか。

「川崎の地名」の南加瀬村の項に拠ると、「昭和12年頃から、加瀬山を切り崩してその土を売る事が行われた」とあります。
「埋土に困っているなら、削ってもいいさ」・・・世を人を救うアンパンマンみたいに思えてきました。
身を削り、血を(地を)売る、みたいな。

同時期、矢上川の両岸に土地を持っていた日吉村は、川を境として横浜市・川崎市へと分かつ事になったそうです。(これには双方の水の利用が大きく関わってくる)

前回ご紹介した「史蹟 夢見ヶ崎」の手描き地図には、更にその西隣の「帝國発條用地埋め立て中」
の記載があります。(現在はマンション他)




オレンジアイコンが、道路の盛り上がり場所。


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その近くにあった庚申塔。

庚申塔、やっぱり多いな~。













そして、面白いのが、この近くに「谷戸」という古い地名があって、バス停や商店街名として残っています。でも周囲には歩いていて全く谷戸っぽい風景はありません。劇的な地形変化を以てしても、何かずっと心に引っ掛かっていました。言葉巧みに惑わすなあ・・・

「川崎の地名」に拠れば、当地における「谷戸」地名は通称地名だとし
沖積低地なのに谷戸と呼ばれる理由は不明。加瀬山の西北に連なる丘陵が削られる以前は、JRアパート辺は加瀬山と末端丘陵との間で、谷戸地形を呈していたという。恐らくそれによる地名か。」

なのに」と口語で示される辺りに凄い親近感。
古地図を眺めたりしても今一つ谷戸のイメージが湧いてこなかったのですが、大正15年内務省の地図というのをみさきさん(ありがとうございます。)に教えていただいて観察していたら

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矢印の辺りがこんな感じで食い込んで示されていたんです。
これは自分には腑に落ちる谷戸感。






谷戸商店街で「里芋のコロッケ」を一つ買って栄養補給していたら、気になる箇所がありました。

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いかにも水路跡。谷戸バス停がある場所からは暗くてよく見えないので、南に回り込んで追跡しています。















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歩道端部分に沿う一角がいかにも怪しいです。






























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越路バス停そば。
この摩耗して碑が読めない祠を最後に、この辺りの痕跡は消えるのですが、
先程の水色アイコンより北側も追ってみます。
しかしこの祠の囲まれ方が頑丈。ただならぬ気配を感じるのだけど。
















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今見てきた暗渠、街の地図看板にも水路線が残っていました!画面中央辺り。




























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そして谷戸バス停の通りの北側にワープすると。
思いがけない場所に野生の暗渠がありました。
この中を歩行するのはちょっとためらわれるので、見える位置まで回り込んで行きます。



















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家々の間のグリーンベルトのような未利用地となっています。
今にも水が流れてきそうな光景。

























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回り込んで道路と交差する場所。ここから先(北)は歩道の一部になっていました。



























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暗渠跡が明瞭になる最後の出口地点には庚申塔がありました。
写真左のどっしりとした覆屋です。












前述の「大正時代の二ヶ領用水のすがた」という図でこの水路跡について調べると、「加瀬堀」という用水かその系統として示されていました。

上の写真の場所はちょうど古くからの道(鎌倉街道・小杉道)が交差する出会いの辻であったようで、

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江戸~明治時代まで高札場(命令・伝言などを伝える告知板)があり、
現在は二対のお地蔵様と庚申塔が祀られています。

すぐ脇を流れるこの用水に関する札も出されたのでしょうか。




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目深にキャップを被った様が、ファンキー&クールでもあり、
近隣の人々の優しく温かい気持ちを感じます。






















道の「叉」具合、旧い道の出会いを感じて萌えます。
はたして道灌さんは通ったでしょうか。
野生の加瀬堀暗渠?、画面左斜め下辺りにグリーンの帯状の連なりを示していて綺麗ですね・・

右の広い空間は日吉中学のグラウンド。


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前述の「大正時代の二ヶ領用水のすがた」図を参考に、大まかに加瀬堀の流れを地図で示してみました。
どのあたりがメインの加瀬堀なのかまだ調べがついていないのですが。


以前、猫またぎさんが川崎の暗渠を連載されていた時から「暗渠溢れる川崎」のイメージを持っていたのですが、当初はあまり暗渠らしい道に出会うことが無かったものの、終盤になって好みの暗渠に遭遇することが
叶いました。加瀬堀は歩き回った後の「ご褒美暗渠」、としての位置づけが強い(個人的に)水路で、ほんの短い区間の追跡にも関わらず旧い祠などに遭遇する確率の多かった流れでした。


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ここもはずせない、矢上川と矢上橋。
奪衣婆伝説があるそうです。
古地図を見ると現在よりずっと曲流しており、蛇行跡が点々としている様子が描かれていて
興味深いです。




元々は両岸とも日吉村でしたが現在はこの水面を以て、川崎市と横浜市の境を成しています。

右岸(現在の横浜市)側は、元々東の川崎側とは異なる灌漑用水を利用しているうえ、電鉄が慶応大学誘致を契機に横浜市側の水道を大学に給水するように要請したのに対し、一方で左岸(川崎側)は二ヶ領用水の恩恵を受けている、といったように、それぞれの土地利用・水の利用方法の方針の違いが明らかになったことが日吉村が分かれた要因だったようです。



おまけ。
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鹿島田の方にあったハーモニカ状の橋跡。
すぐお隣の堀跡(親水緑道となっている)には橋名がついていたようですが、こちらはいまなお判明せず。







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三菱ふそうのカッコいい部位。
ここの道も水路跡。





























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組み合わせの妙が非常にそそられるお店でした
















寄せていただいたコメントで「海を見ていた道灌さん」という視点を改めて頂戴し、春の夢見ヶ崎周辺再訪&矢上川を渡って「元はつながっていた?加瀬山と日吉台地体感」の日々が待ち遠しいです。


・・・いったいどんな岬だったんでしょう。英語でもcliff 、cape、 point、って色々呼び方が違うし。。
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# by onnbubatta | 2014-02-20 14:15 | 神奈川 | Comments(8)

夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など

「崎」のついた面白そうな地名に惹かれ訪ねてみました。


初めて聞く地名では無く、pcのお気に入りページ最下段にずっと「夢見ヶ崎」を冠したサイトがあったのです。

以前,日吉のまむし谷と「松の川」に繫る暗渠を歩いたあとに
周辺の地歴なんかを色々調べている際に出会ったサイトだと思うのですが

今見ようとすると検出出来ない・・・残念。


夢見ヶ崎地名を擁する「加瀬山」の独立丘の形も異彩を放っています。
孤高のお姿でもあり神々しい。絶対沢山の籠もったものを内包していそう。

現代目に見えている姿は独立丘ですが、時代によっては海に浮かぶ島だったり
横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれませんね。


d0250051_10472054.jpg

左が鶴見川支流の矢上川。
最寄駅は横須賀線の新川崎駅。S55年開業の比較的若い停車場です。











そもそも「夢見が崎」というのが現代風のキラキラネームのような印象を受けるのですが
そうではなく、この地を訪れた太田道灌の故事に因んでいるという事で、
ならばいつ頃からそう呼ばれるようになったのか、また地形の変遷など机上で調べているうちに

やはり現場に行かねば・・・と。

道灌さん。
子供の頃近所に「道灌山」という地名があり深く考えることもなくごく普通に接してきました。
ここ川崎の地でも(いや、関東一円に)足跡や伝承を残していて
改めて不思議な響きを与えてくれるのです・・・


夢見る頃はとうに過ぎましたが、初めての新川崎へ。



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新川崎駅を左に出るとすぐに見える加瀬山のお姿。
手前の工事地帯は新鶴見操車場跡地の一角。

新鶴見操車場跡地は一部が開発されています。





私は「小倉跨線橋」からの荒涼とした風景~広大な空き地の一面のススキ野原とポツンとした箱のようなモデルルーム・・・も気に入っています。



さて加瀬山に登るルートは複数あれど、最初は北麓から登頂する予定。

山には川崎市「夢見が崎動物公園」があり、そこまでの道程にはアライグマのしっぽマークの
サインが路面に貼られているので忠実に辿ります。


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テニスコート沿いの暗渠。
(後々追ってご紹介するかもしれません)




























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長毛種の夢見・キャット・見返り。

「いい夢見ろよ」













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「夢見が崎公園」脇の階段を昇ります。
標高30m余にアタック














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蓋的なものが
































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当然といえば当然・・・

















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一気に登る感じなので息が・・・
















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昇った先は了源寺という寺社や墓地。
いきなり墓地があったので少しの驚きが。

そして山の中に元々は11基(それ以上あったという説も)はあったという5~6世紀にかけての古墳の跡を示す標が幾つかあります。
















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西端の方にあった白山古墳(4世紀後半築造、南関東では最も古い古墳)、第六天古墳は消滅しています。
(白山社・第六天社と弁天社もかつては存在しましたが、大正4年に天照大神に合祀されて現存せず、社地のあった丘も崩されて消滅)



d0250051_1139610.jpg

こんもりした高まりの頂に祠が載っているのが見えますが、蜂がタムロしているとかで見学不可能でした。
(9号古墳&道灌の碑があったらしい・・・です)























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意外に広い空間の山頂には、古墳跡や神社・お寺・墓地・動物園と実にいろいろなものがのっかっています。
東山麓付近には貝塚も。







子供たちの学習用の「日吉のタカラモノ探検」の様々な看板が設置されていて、それを眺め歩くのも楽し。


 「加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島だった」 

そんなわくわくするイラスト入りの説明版もありました。
縄文海進の頃(約6000年前)・・・に思いを馳せると何とも言えない場所に立っているのだと感慨も深いのですが、
「夢見が崎」という健康的で、華やかな明るい地名の音をイメージして臨んだなか、偶々かもしれませんが気づくと山頂公園には思ったより人も少ない感じ。小さい子も遊んでいなかったし。

急に風が起こり、何だか寂寥とした空気が流れていて、「早く下山したいな~」という気分に支配されてしまったのです。

そっち方面の感受性は鈍かったはずなんですがね・


折角昇ったのに・・・山頂の神社群や富士山が見えるポイントもあったようなのですが
早々と等高線の筋を横切って下界へと。


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室町時代の武将太田道灌が見晴らしの良いこの地に陣を敷き、築城を計画した晩に
自分の兜を一羽の鷲に持ち去られたという夢を見、築城を断念したという故事も記されています。




もののふにとって大事な兜。それを持ち去られたのは良くないお告げというか夢占ととらえたのでしょう。

その兜が南の鶴見川対岸の山に埋められているという言い伝えもあるそうです。
(行ってきました。また後ほど)


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地形みたいな雲が出ていました















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トーテムポール、子供のころから好きなんですよねえ。
箱根小涌園に昔あったやつとか。

























南山頂から下界へ降りて行きます

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またすごい張り出した位置にお稲荷さんの鳥居が。
横に階段があるのでそこから降りていきます。












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階段を降りて山の中腹あたり。
下アングルから眺めるのもいいな。上部がすっきりするから



























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道祖神が二体

















そして目に入ってきたのは・・・


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これ。
東京電氣
最初全く何のことか解さなかったのですが、「氣」という「気」の旧字を使用しているので面白いな、旧い
ものなんだろうな~くらいにしか思っていませんでした。

















調べてみると
「東京電気」とは東芝の前身。


明治41年、現在の川崎駅前に「東京電気堀川町工場」(現ラゾーナ川崎)が創業、白熱球等の生産を開始する。工場建設に辺り、大量の土砂が必要となり目を付けられたのがこんもりした加瀬山の豊富な土であった。


①東京電気は加瀬山の南東部分一帯(真下のyahoo地図黄緑アイコン周囲)を買収、
夢見が崎から約4km離れた堀川町工場は非常な低湿地に立地しており、その造成や多摩川洪水被害による工場復旧の為に、トロッコで加瀬山の南東部分(境界杭のある地帯)の土が運ばれ続けたのだという。

山が切り崩された時期、土砂が運ばれた時期については資料で幅があるので、長い期間をかけて順次
山の南東部は形を変えていったということなのだろう。

(マルで囲んだ番号は三枚下の地形地図に対応しています)

土砂が運ばれた跡地は国鉄が買い取り、官舎や球場として整備されたのち、現在は特養施設や庁舎、JR社宅が建っている。

山の南東部は加瀬山の中でも一番の高まり・ピークを有し、現在の日吉交番辺りまで山裾が延びていたという。(真下の地図では夢見ヶ崎公園入口の交差点辺り)

「夢見が崎」の小字名が付けられていたのはこの辺りのようなので(現在は小学校名や公園名、商店街などには残る)、往時の突端だったのだと想像して感慨が深くなります。

(夢見が崎地名については後程綴ります・・・)





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いつもお世話になっている現地の地図看板に小字名が薄字カッコ書きで表示されています(天地が逆)












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これはまたインパクトのある字名・・・字ドブ。古地図では「土浮」とか「土腐」の表示。
低湿地に付けられる呼称として、全国的に分布しているようです。
こちらの近隣では「長ドブ」などの活用形も。





加瀬山の切り崩しはその後も地点を変えて続行されていくこととなります。

①上述の南東部の切り崩しに続いて

②大正15年(1926)には天照皇大神の西側の山が切り崩され、新鶴見操車場の鉄道用地の埋め立て用に運び去られ、その跡には新鶴見操車場で働く人々の住まいになる鉄道官舎が建設された。


③昭和13年(1924)、現在の白山幼稚園辺り、前述の白山古墳があった辺りも、北加瀬地区の軍需工場(三菱自動車)建設用や小倉・木月近辺の住宅地建設の用途の為に使用された。

④矢上川に続くこの丘も北方の埋め立て用に掘られた。
(番号は下の地図に対応)

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図は川崎市のサイトを引用・参考にさせていただきました。
ありがとうございます。








切り崩された場所の現況写真等々、次回以降ご紹介致します。

この地域で稀な「丘」は、豊富な土砂の産出先として近代工業の礎になったということでしょう。


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加瀬山の土が運ばれた、東京電気(東芝)堀川町工場跡地に開発されたラゾーナ川崎にある工場の遺構。
掘ったら加瀬山の土の成分とか検出されるのかな。

事件捜査とかで土の産出先とか鑑定するみたいに。



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「東芝ブラウン管発祥の地」


















d0250051_11224386.jpg

加瀬山から川崎駅前まで土が運ばれていったのですね・・・











************************************

「夢見ヶ崎」という地名について。

文献で出てくるのは江戸後期に編まれた「新編武蔵國風土記稿」の
「加瀬山」の項に、

「(加瀬山の)東方はづれを夢見崎と云。其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、
其夜道灌己がかぶとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所に飛去りしと夢見しかば、此事不吉なりとて
其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎とは唱るよし土人伝ふれども、
外により所なし


「外により所なし」が気に留まる。。。

土地の人たちの間でこういう話が伝わっているけれども、確かな事は明らかになっていない、という意味でしょうか?

また「加瀬山」そのものに関して、北加瀬村の記述に

南加瀬と当村(北加瀬村)の間に突出し、山の中央を両村の境となせり、高さ八九丈、山上は畑を開けり、
其畑の中に四五坪の小高き芝地あり、松樹二三株立り天守台とよべり。相伝ふ往昔太田道灌この所
に城を築かんとせしかど、故ありてそのことやみしなど土民の口碑にのこれるは前村にも戴する山の
条下にあり、さあらんには天守台の唱へは後人の名付しこと論を待たず。」


山頂には、道灌の故事に因んだ天守台と称えられるさらに小高い地があったようです。


太田道灌は室町時代の武将、なので夢見ヶ崎の地名は1400年代半ばから1800年代半ばの間には
いつしか言い習わされるようになっていったのか・・・と随分ざっくりとではありますが考えるに至りました。


調べる過程で、非常に参考になる貴重な御本との出会いがありました。
場所は武蔵小杉の図書館。地価上昇率ランキングトップ・槌音響く武蔵小杉で降りたのはじめてかも。。!
(武蔵小杉と聞くといつもケイン・コスギさんのお顔が浮かんでしまうのです)


慣れない書棚で何気無く手にした小さな古い本「史蹟名勝夢見ヶ崎」。
高橋東秀さんという地元にお住まいの方が書かれた、昭和12年発行された本です。
年月を経ているので、大事大事にそっとめくりながら読みました。

夢見ヶ崎への愛が溢れていて、この地の事をよく知らない私にもその熱い思いが突き刺さるような冒頭から引用、ご紹介をさせていただきました。


夢見ヶ崎の崗の麓に生れて育つた私は、實に明けても暮れてもこの丘の風情を身にしみて来たものです。
それゆゑ、世間からは、やれ夢見ヶ崎狂だの、道灌狂だのと半ば冷嘲的にさへいはれて来たのです。
私は只、夢見ヶ崎の歴史を瞭らかにし、又、この美しい風光を出来るだけ世に紹介して、久しい間の
念願を成就したいとのみ考へたのでしたが、時運は繞って(めぐって)遂にこの丘のある土地が川崎
市と併合しさうして大きな近代工業都市としてはどうしてもこの崗をわれらが安息の場所として考へね
ばならぬやうになって来たのです。そこで兼々考へてゐたことを記念するために、去る九年以来の計画
を実行しようとする其の一のあらはれとして、この小冊子をまとめ上げたわけなのです。・・・中略
唯、少しでもこの丘の面白さ、ゆかしさ、美しさが胸に落ればそれで満足です
。」


いやいやいや。
「夢見ヶ崎狂」ユメミガサキ・フリーク・・それは最上級の褒め言葉です。。。その道を突き進んでこそ。
この丘が好きで好きでたまらない方が、戦争前夜の9年来著そうとあたためてしたためた本、絶対に面白いにきまってる。


川崎の駅から南武蔵の平野を横切るやうに走る南部鉄道に乗つて、鹿嶋田といふ駅近くなる頃、
間もなく車窓に緩やかな形をした翠の深い丘陵の横はるのが眼に映るであらう。それが夢見ヶ崎だ。

夢見ヶ崎、斯う呼ぶと、その名稱(称)の響きからして、人の胸に何ごとか追走のさゞなみを湧かすであろう。
あれは、夢を懐く丘だ。なつかしい夢を抱く崗だ。

此の夢は、誰あらう太田道灌の夢だ。夢と伝えられて居るのだ。太田道灌は、武蔵の平野を縦横に馳驅
して、白雨の滴より数多くの物語を残した熱血漢だ。好もしいきびきびした男だ。
この好漢の夢であった、夢を抱くあの大きな崗よ、誰か、追懐の心を露の如く注がずに居られようぞ。

元の日吉村字北加瀬、同南加瀬の二つの大字に跨る丘なのだ。

試みにこの丘崗に立ち、佇み、膝を組み、雲の去来する彼方を眺めてみよ。
東に、多摩川の清く美しい波が、川原の小石に白く小さな泡を吹きながら羽田の海へすべって行く。
南に、鶴見川の静かな流れがある。
あらゆる木立の茂みから四季不断の武蔵野の風が湧き、丘を渉るいくつかの斜めな路が串通して、
そこに寺と社の風致を見ることが出来る。

・・・丘に立てば、追想の糸はどこまでも続いて行く。」


東秀翁が何歳くらいの時に書かれたのでしょうか。
旧漢字や文語調の言い回しが難しく、字体から想像して読む楽しさを与えていただきました。
反語が含まれる箇所なんて、こちらが興奮してしまいます。

新川崎駅がまだ存在しない頃の、鹿島田駅付近からの車窓風景の描写が貴重です。
そして山上に立つと、多摩川まで望む事が出来たのでしょうか?

私がふと不安に駆られた突然の風は、武蔵野の風が吹き抜けたに過ぎないのかも。
次にまたここに登る機会があれば、もう少しの間山上に留まって、色々思いを巡らせてみよう。

 
そして、上述の「風土記稿」にある山上の”天守台”について、東秀さんの文でも以下のように触れられている

「兎も角、土人の口碑といふ一事が先づ以て光って居る。里伝の発端が、この道灌懸慮に在るとした。
或はさういふ計画であったかも知れぬ。今、天守台といはれる所に、八幡宮の小祠と記念の石碑が
建って居る。」



加瀬山山上に現在立地する了源寺、ここは妙法寺と呼ばれていた時期もあり、ここの当時の住職と道灌は
親しい間柄であったという。

《太田道灌の夢》という小見出しから、風土記の説を引きつつ、夢見ヶ崎という地名が伝わった経緯が記されている。

「・・・さて、道灌はしばしば此処に来ては、丘上に屯営したといふ事である。即ち、想ふに、戦場の
往き還りか、又は時として四辺の状態を探る為の往来か、或は単なる風光を探ってこの物外の交
りを暖める為か、必ずその何れかであったらう。
斯うして土地の相貌に親しみ、馴れ、眤んでは、勢ひ、軍略上の要害地としても充分に考へられた
ことは相違ない。やがて築城せんとして改めて地相を見直すに至ったとの里伝が生まれるやうに
なったのである。」


古墳時代から人々が住み続けてきた丘の良さを道灌も肌で感じ取っていたのでしょう。

ここから先の話は、「夢見ヶ崎」地名の由来として伝わっている部分が含まれているが、本書には
より詳細な評伝も記されている。

「ある夜の屯営の夢に、忽然として羽音を博つ(広げる)一羽の白鷲、陣営に風を起こすよと見る間に、
其所に措いてあつた道灌の兜をいきなり咬へて飛び去った。凄まじく飛び去るなと見送ると、ここから
九町ほどの距離にある駒岡山に、咬へし兜を放し置くと見て、夢は醒めた。

吉か凶か、瑞兆か凶兆か、道灌としては、まことに気にかかる夢である。思ひ迷うて此の夢のさまを
妙法寺の住職に物語り、且つ其の判断を聞いた。
 
言下に答へていふやう、夢は極めて凶である。此の地の築城思ひ止まり給へ。
東の方、大川のあなたに良き地相の所あれば、そこに落着し玉ふべしとある。」


懇意にしていた住職に夢の判断を仰いだ道灌、「大川のあなたに良き地相の所」=江戸方面への
築城がお勧めされたのですね。
未開の地であった江戸になぜ城を築こうとしたのか・・・という古来からの疑問に対しては諸説存在
しますが、その背景としてこのような逸話が伝わっていたことは初めて聞き及びました。

「・・・ここに恨みを呑んで築城を思ひ止まることとした。江戸城が出来上がったのは之から間もない
長禄元年彌生の頃であつた。

加瀬山の夢あつたればこそ、彼の雄渾なる江戸城に着手したものともいへる。

しかし、道灌は、心を悉く此の丘陵から離すことは出来なかった。それほど愛着が強かったのだ。
寛正六年には、八幡宮の祠を、此の頃の天守台に建立したと伝えられる。
天守台といふ名は、前にも述べたやうに、恐らく築城配置の縄張り当初に考えられた場所なので
あつたらう。加之、ここに和歌一首を詩吟せられたのであつた。


さまゞの 眺めも果てずよしや世の 夢見が崎の春のあけぼの

和歌の題に、夢見ヶ崎とあると伝えられるから、いはば、文明五年の彌生の頃にあつて、己れ夢
の不可思議を思って崎の名になしたものか、或は又、此の吟詠ある以前、既に夢見の話が著名
となつて、誰称ふるとなく、加瀬の丘陵を夢見ヶ崎といふやうになつたのを、道灌も亦ほほゑみ
うなずきしつつ、柔らかな春のあけぼのを詠んだものか、何れにしても、夢見ヶ崎の夢は、正しく
大なる覇業の根本を、底から覆がへしたものとなつた。
成らざりし昔の事から、夢見ヶ崎の名に表われる物語を以てその解説の妥当としたものか。
そこに星霜(年月)久しき里伝成長の妙があつて、白銀の如き滴歴を下して居るのである。」
 


東秀翁による夢見ヶ崎地名考、佳境から一気にクライマックスに突入した感じです。
最後の一文の後半あたりは私はよく解りません・・・

道灌が詠んだとされる歌はやがて了源寺の住職に与えられ、色紙一筆がとある家に宝として伝わっている
との事です。

登場する年号:長禄元年(1457)、寛正六年(1465)、文明五年(1473)だけでも16年間に渡り、道灌と当地との深い関わりが推測されます。それ以前に幾度となく道灌は夢見ヶ崎を訪れているとされており、各地を駆け回った太田道灌(1432~1486)の人生の於いても、この場所は思い入れの強い特別な地のひとつだったのでしょう。
(しかし年号が頻繁に変わる)

道灌が生きている間に夢見ヶ崎の地名が既に定着し、離れた場所にいても聞き及んでいたのでしょうか。
それとも時間の経過をみたのち、道灌の故事を引いて呼ぶようになったのか・・・

また、夢見ヶ崎には昔より「二十六夜会」というものが伝わっていたそうです。
道灌の死後、道灌を敬慕する土地の人々が年々二十六夜に月を鑑賞する集いであり、天守台の観月地で
昔語りなどに興じたというもの。

加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません。昼間でも不思議な風を感じたので到底夜になど近づく気がしないのですが・・・


結局「地名考」と言いつつ殆どが引用になってしまいました。。
この素晴らしい本を目の当たりにして、耽溺しています。



d0250051_12255386.jpg
持ち去られた道灌の兜が着地したという、駒岡。
ここもまた山の上(丘ってかいてあるけど)にあります。












d0250051_12272010.jpg

道灌さんの「灌」の字が金へんになってて面白い~。
史蹟の説明版には、江戸城を構成する支城の候補地を選定すべく、加瀬山を訪れたという
史実の記載になっています。









紫アイコン、上末吉小学校辺りが兜塚。
鷲は夢見ヶ崎からほぼ真南の方向に飛んでいき、鶴見川を渡った辺りで兜を落としたようです
(重さに耐えかねたのか)


*****************************

次回以降、夢見ヶ崎周辺の細かい散策、暗渠探しも綴っていきます。
あとは、道灌さんの通った道はここかな~とか。

最初に来た時は右も左もわからず、完全に異端者というか。この土地の香りが思うように把握出来ず。
二回目くらいからでしょうか。やっと「日吉に近いんだ・・・というよりここも日吉と呼ばれていたんだ」みたいな
基本的な地勢が見えてきて(普通の人には当然に見えても自分には何故かこの点が欠落していたのです)。

そうなってくると感じ取る事も見えてくるものも不思議と多くなっていきますね。

旧いものが集中的に点在していて、本当に興味の尽きない土地でした・・・!

最後に「夢見ヶ崎音頭」というのがあるそうなので、抜粋してご紹介させていただきます。

「〽ハア~ 春は桜の夢見ヶ崎よ(ソレ) 中略
太田道灌 日吉の里に 日本一と 折り紙付けて
お城を築く事 決めたとさ
・・・・・」


伝道灌さんの和歌もゆかしくて良いですが
こちらは盆踊りでしょうか。体を動かし移動しながら夢見ヶ崎の地名を口ずさみ踊れるのが
いいですね。
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# by onnbubatta | 2014-01-29 12:45 | 神奈川 | Comments(14)


暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体   その他徒然(適当です)


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