百々向川 業務スーパー支流(成増)
百々向川の短い支流:業務スーパー支流(業務スーパーがなくなったらこの名称どうしよう・・)についてメモ的に綴ります。
成増駅北口、業務スーパーの左脇に小溝がやってきています。お店の右側には本流が見え隠れしています。
今昔マップ(1917-1924)より引用編集させていただいています。
本流の谷に対して、西側へ開析する短い谷地形が見られますが、その谷に相当する流れだと考えています。
昭和22年の空中写真。画像中心辺り、カーブする本流に対し、水路のような線がうっすら映っています。
色を付けるとこのような感じ。本流(濃い青)、支流(薄い水色)
支流の方はもう少し上流まであったのかもしれません。
周り込んで、さらに上流側を見てみると
こちらは蓋はよくわかりませんが、スペースが残されていました。
周りにお店も無い中、ぽつんとある履物屋さんも気にかかっていました。
ここの脇に水路敷が出てきていました。
再度、業務スーパーの脇に戻ります
「業務スーパーの支流」を存分に堪能します。
葬儀屋さんの脇には暗渠で本流が流れています。
この二文字の看板、平屋建て・・何だか惹かれます。
(2021.7追記、この暗渠沿いの葬儀屋さん更地になってました。建替えでしょうか。)
昔、この近くに「ホテルニュー桐壺」という不思議なホテルがありました。(今は住友のマンションになっています)
10年位前まではあったでしょうか、いづれのおん時にか・・・
追記:改めて少し調べてみたら、確認できる最古の住宅地図、昭和30年代のものに同じ位置で「旅荘桐壺」が確認できました。昭和50年代初頭でも「旅荘桐壺」
の表記のままでした。
北口で確認できたのは桐壺だけでしたが、南口には「旅館武蔵野」「旅荘初音別館」、線路際に「旅荘日の出」、が見て取れました。
興味深かったのは、昭和30年代の成増付近の住宅地図に「外人宅」の表記があちこちに見られること。
グラントハイツの関係者でしょうか?グラントハイツの関係者は皆グラントハイツ内に住んでいそうなイメージなのですが、駅周辺だけでなく
清涼寺の辺りにまで表記がみられるので、不思議な感じがします。
東上線の向こうには「ホテルヒルトップ」という地形を標榜するホテルが見え、
丸窓ウォッチャーとしてグッときました。谷底にいたのに、急に切り換り「ヒルトップ」が目に入る鮮やかさ。
改めて、成増の地形は面白いなあ。
前述の「旅荘日の出」の後身だったら面白いなあと思ってましたが、並びは一緒で3軒くらい隣でした。
百々向川の過去記事です。↓
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by onnbubatta
| 2020-07-28 17:48
| 百々向川
|
Comments(4)
大森海岸~磐井神社の堀跡、ホテル街散策
だ~いぶ間をあけてしまいましたが、ブログを再開致します。(写真は昨年のものになります)
前回記事です↑↑
前回記事の「八幡橋」から国道を渡ると「笠島弁財天」の池のある磐井神社があります。
城南らしい(謎形容)明るい水景色。
前回記事です↑↑
神社の前の国道に面した歩道の中に、社名の由来にもなった「磐井の井戸」があります。
その井戸の水は、「心正しい者が飲むと清水、邪心あらば塩水」であるそうです。
元々は神社の中にあったものを、国道拡幅に伴い外に移動したとの事。
ちょうど神社で使う用具?を赤く塗る作業が行われていて、その赤の鮮やかさに声が出そうなほどどきっとしてしまいました。
神社の中の玉垣には、この辺りにかつてあった料亭の名が連なっていました。
前回ご紹介した「梅元」さんのものも。
「磐井神社の堀」跡は一部緑道の形で辿る事ができました。
ちょうど梅の盛りで、何とも鮮やかで美しい光景でした。
京急をくぐる箇所はガードレール、車止めが設置されており、ここから先:西方面は堀の痕跡は見つけられませんでした。
「東京時層地図」(昭和戦前期)より引用させていただきます。
磐井神社の堀は京急をくぐった後は名称不明の大規模施設(おそらく工場敷地)の南側を敷地に沿って流れています。
(ちょうどこの地図の右端が途切れるあたりで水路表示も消えています)
しかし「八幡橋」の橋がくっきり黒々と表記されていること!!
さそかし立派な橋だったのでしょう。。暗渠化に伴って撤去されたのでしょうか。八幡橋の写真、どこかで見られないかなあ・・・
二つ池のような表記のある場所は工場敷地とは別敷地のように線が引かれていますが、現在ホテル街となっている区画です。
(清花園鉱泉から工場敷地へと変わった後も、「帝都地形図」では釣堀の表記がある区画。昭和10年代の空中写真でも池のある場所です。なんでこの一角が大規模敷地に取り込まれなかったのか・・・?)
同じく「八幡橋」の立派な橋表記に注目です。水路の線は上の地図よりも短く表示されています。
水路(特に上流部から国道までの区間)はいつ頃まで残っていたのでしょうか。
昭和38年の空中写真です。工場敷地の南から河口まではっきりと映っています。
昭和50年。ちょうど神社の上の区間~京急から国道の区間、だけ影?が落ちているので水路か影かわかりませんが、河口まで残っています。
平成元年。京急から河口部分は埋め立てられ、朝日ビールの工場部分は梯子開渠が残っているように見えます。
この「磐井神社の脇から海に注ぐどぶ川」で子供の頃(著者は昭和8年生まれとの事なので、昭和10年代の様子か)よく遊んだ・・という内容の記載が「東京大森海岸ぼくの戦争」という書籍の中にあるらしく、是非一度読んでみたいと思っています(図書館やってない(涙))←2020.9追記 この水路に関する記述を最後に追記します
再び前回と同様に今昔マップ1896-1909より引用させていただきます。
前回ご紹介した大森海岸駅近くにかつてあった「題目堂」(青い丸)と同様に、磐井神社(オレンジ)も海岸線に沿った場所に立地していたことが改めてわかります。
迅速地図(1880年代)より引用)を見ると、下の方に八幡社=磐井神社、中央に題目堂、上部に「鬼子母神堂」が見て取れます。
ライン状に寺社が連なっているように見えます。
こんな位置に鬼子母神堂あったっけ??と思い調べましたら、鈴ヶ森刑場に隣接して鬼子母神堂の堂宇があったとの事でした。
更に掘っていくとこの鬼子母神堂は「大正時代を代表する冤罪事件:鈴ヶ森おはる殺し殺人事件」の舞台で、
被害者のおはるさんは鬼子母神堂に隣接する砂風呂旅館「浜の家」で働いており、遺体が鬼子母神堂で発見されたのだそうです。(超ざっくり)
こんな場所に砂風呂旅館などがあったんですね・・蒸し蒸し・・脱線・・・
(偶々、とても不思議な画像を撮影できたので)
話は変わって。
大森海岸駅南側のホテル街。
東京時層地図では池の表記があった場所です。昭和中期の住宅地図では料亭や旅館等の表記が見て取れました。
かつて隣接していた「清花園鉱泉(明治後期から大正初期~鉱泉浴場や釣堀を備えた遊園地」の湿気の名残も影響しているのでしょうか・・隣地が工場敷地となった後、釣り堀として残った一角。しっとり、じっとり立ち上がってくる土地の匂い。
(清花園の跡地は、大正7年~東京瓦斯電気工業/富士自動車工場/、中島飛行機等に部品を納めるメッキ工場※(※WEB情報より)→朝日ビール大森工場→イトーヨーカドー、オフィス、マンションへ)
ずっと同じ屋号で営業しているホテル(ホテルって割と屋号変わる中で珍しいですね)
ホテルをリノベーションしたタイル物件のスタジオ。
浅い海のような色合い。
前回の記事でご紹介した、元:芸妓置屋さんの建物、
日を改めて再び訪れると、中から猫さんが出てきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おまけ。
同じく海沿いの鮫洲八幡神社。
冒頭で使った
“城南らしい明るい水景色”そのものです。というより春の淡い浅さかな・・・?
海の波を思わせる戸袋
暗渠っぽいなと思い覗き込んでいたら、猫がやってきました(暗渠認定)。
2020.9追記 小関智弘著「東京大森海岸ぼくの戦争」より、引用させていただきました。
「磐井神社の脇から海に注ぐ、我が家の前のよりずっと大きなどぶ川」について
「いまの京浜急行大森海岸駅の近く、戦後はアサヒビールの工場となり、そのビール工場も移転していまは高層マンション群が並ぶ辺りには、かつては東京瓦斯電気工業(通称ガス電)という大きな工場があった。
大森駅東口からそのガス電の工場のまんなかを通って京浜急行の線路沿いにある磐井神社(八幡様)の脇から海に注ぐ、我が家の前のよりずっと大きなどぶ川も、小泉次太夫の六郷用水の末流であった。
大雨で増水したその大どぶの水が退くと、線路の辺りからどぶに降りて、どぶ川の中を歩いて、正門からは入れないガス電の工場にまでタモ網を持って掬いながら行くと、大きな鯉が採れた記憶が少年の中のわたしにはある。」
「空襲で焼け落ちて廃墟となったガス電の下を通って、磐井神社の横を流れる大どぶが海に出るところに、十隻ほどのボートを舫ったボート屋があった。篠崎君にボートの漕ぎ方を教えられた。夜のボートに二人で乗った。小町園や悟空林も、再び高級料亭として賑わっていた。料亭から突き出したように小さな桟橋が架かっていた。その幅の狭い桟橋の上で、米兵が三味線に合わせて踊るのが見えた。時には着物を大胆に尻端折りした芸者と米兵が、その桟橋の先端でドンケツ遊びをしていた。三味線に合わせ、手拍子を取りながら尻をぶつけ合って相手を海に落とす。芸者たちの嬌声がいつまでも続いた。」
水路の名前は特になく「大どぶ」、大森駅の東口からやってくる六郷用水の末流だったんですね。
大森駅東口から上流はどのように接続していたのでしょう。。六郷用水は全く詳しくなくて。
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by onnbubatta
| 2020-04-24 21:05
| 城南
|
Comments(9)
大森海岸~暗渠、潮の香りの料亭街跡散策①
少し前に品川辺り(仙台坂、ゼームス坂界隈)を歩く機会があって、城南方面へひたひた、ひたひたと足を踏み入れ始めてました。
何故か私の頭の中では、なんかあれなんですが品川=小平事件の小平義雄、のイメージがあって、そこから「大井海岸町」という旧町名に辿り/流れ着いたというのもあります。そこには、最近になって急激に興味が湧いてきた「料亭街」がかつてあったのでした。
今迄全く気が付かなかった入り堀跡みたいなのもあるんですよね。
はじめての「大森海岸」へ向かいます。
去年の今頃、大森町駅も暗渠散策で初めて訪れて、何だか「春には大森」の流れが来ているのを感じています。
海が遠ざかった歓楽街という点では愛知県碧南市衣浦の記事とも通じるような。
スタートは、大森駅から。
クリーニング屋さん「あらがや」(荒賀さん)のタイルを見に来ました。
今昔マップ(1927-1939)より地図を引用させていただきました。
京浜電気鉄道大森支線の跡を通って大森海岸駅方面へ向かいます。
大森海岸駅の北側、南側両方に料亭街はあったのですが、まずは北側から。
あまり遺構は残っていないとの事ですが・・・
「大森海岸 芸妓置屋 由の家」様のホームページに寄りますと、こちらの建物は芸妓置屋だったそうです。
過去住宅地図を何年か分見た感じでは個人宅のような表記でした。
溶岩っぽい石造が玄関の内側に残っていて、異世界の雰囲気を少し残していました。(2021.4追記、解体済み)
たまたまかもしれないですが、建物側面の円柱に勝手に料亭街のしっとりした空気を覚えてしまうのでした。
駅近くの「松乃鮨」さんの近くに、1960年代の地図では「題目堂」の表記があってずっと気になっていたんですが、以降の地図では消えており、現地はどうなっているのかと思っていました。が、やはり何もありませんでした。
きっと、どこかへ移設されたのだとは思いますが。
(ちなみに、駅の反対側~海側には大型の料亭が林立し、その中の「楽々」などは地図でも(不夜城)の別名表記まで記載されていて興味深いです。)
更に年代を遡ると、明治期には駅の反対側(東側)に寺院の表記が見て取れます。
これが、上記の「題目堂」なのか?と思い、帝都地形図を引きましたら
「国道1号東海道の街道脇にある題目堂は寛政年間(1789-1801)の開基である。鈴ヶ森刑場と関係はないが、刑場付近の悪臭、凄惨な様子を通行中にみた元小田原藩士で池上本門寺の日観が、霊を鎮める為に草庵を結んだのが始まりと言われる。」
の記載がありました。
国道の拡幅に伴って駅の西側に移されたのち、時の流れでまた別の地に。。。という流浪のお堂なのでしょうか。
料亭ではなく比較的新しい年代の建物なのだけど、残り香みたいなものを感じられる間口。
駅の南側へ移動します。
今は埋め立てられている入り堀?(名前がわからない・・・!水路跡のブログなのに・・・八幡橋、の名前は判るのですが)沿いに旧い建物が一軒残っているのをグーグルマップでチェックしていたので。
この建物を見たかったのですが
護岸のようなコンクリ―トが残っていました。
2020.9追記 戦後のこの辺りの堀の様子が小関智弘著「東京大森海岸ぼくの戦争」に描かれていたので、引用させていただきます。
「空襲で焼け落ちて廃墟となったガス電の下を通って、磐井神社の横を流れる大どぶが海に出るところに、十隻ほどのボートを舫ったボート屋があった。篠崎君にボートの漕ぎ方を教えられた。夜のボートに二人で乗った。小町園や悟空林も、再び高級料亭として賑わっていた。料亭から突き出したように小さな桟橋が架かっていた。その幅の狭い桟橋の上で、米兵が三味線に合わせて踊るのが見えた。時には着物を大胆に尻端折りした芸者と米兵が、その桟橋の先端でドンケツ遊びをしていた。三味線に合わせ、手拍子を取りながら尻をぶつけ合って相手を海に落とす。芸者たちの嬌声がいつまでも続いた。」
嬌声にとって変わったのが、モーターボートの轟音、というところでしょうか。
八幡海岸に、堀からの澪筋のようなものは描かれており、しばしうっとりしてしまいます。
「梅元」南側の堀は国道を「八幡橋」で渡って、磐井神社を回って京急とぶつかっているように描かれています。
(八幡橋 大森海岸、で堀の名称を検索しても江東区の方の八幡橋が出てきてしまって・・・)
(清花園は鉱泉浴場や釣堀を備えた遊園地で、電力の供給を京急から受けていたとの事。のちのアサヒビール大森工場。
現在の「清花公園」にその名残がかろうじて感じられます。)
(清花園南の「潮田」地名もかなりキテます。)
次回に続きます。
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by onnbubatta
| 2019-03-03 12:27
| 城南
|
Comments(2)
早稲田散策 コートハウス型の下宿建築を探して
最近、街歩きに少し新しいアプローチ/手法が加わりました。
最も有名な「日本館」。
日本館は数回前を通っただけで、細部は観察していなかったのですが、グレイがかった水色の窓枠、板張りの壁など本当に絵になる建物で、ランドマーク的な角地を形成しています。
名古屋の中村遊郭探訪がきっかけだったのですが、過去も含め航空写真から見た建物の特異な形状、古びた感じをまずチェック、そこから周りを歩き始めるといった具合です。
中村遊郭は特にその中庭を擁した「中空の箱」、「コの字型」の形が地表を埋め尽くすように見えるのが私にとっては強烈な印象だったのです。
そんな流れで、たまたま早稲田~高田馬場界隈の過去の空中写真を眺めていたら、かつて下宿/旅館/寮、社宅等の建物に上記のような特徴(またはそれに近似する)を備えた建物が多くあったことが読み取れてきました。(併せて住宅地図や、地元の方が作成した手描きの記憶地図なども参考にさせていただきました。)
しかし気づくのがいつも遅く、現存している建物は僅かです。
昭和10年築との事。昭和10年くらいの手描き地図を参照すると「紺碧館」の表記がありました。
見づらくてすみません。
この地図内で現存しているのはおそらく上のピンク二つになります。(もう一つのピンクは間違いです。重ねてすみません)
「日本館」はピンク丸の上二つの左側(明治通りに近い方)です。
藤棚?も。
通りに面してゆったりとした広いお庭、背後の棕櫚の樹も立派で、シンボルツリーみたいです。
西向きの傾斜地に差し掛かる立地なので、本当に「富士見」の宿だったのかもしれません。
この界隈に川の流れのように連続している点字ブロックと「ピンポン」と鳴る誘導音を聴くと、馬場に来たなあ、と実感します。
富士見荘「建築計画のお知らせ」看板が掲げられていました。
いつもそうなんだ・・・ふっと呼び寄せられて赴くと。
昭和40年築との事。
がくんと肩を落とします。
中空型の建物が一つ残っているはずの、少し東の方に移動します。
これもグーグルマップの航空写真で見ただけなので、存在している保証はなく、富士見荘の「建築計画のお知らせ」看板を見た後なので不安な気持ちを抱え。
としばし狼狽してしまいましたが、目的地はどうやら奥の建物のようです!
隣地が空いて、より良く観察できるようになってる!
かちゃかちゃ、ガチャガチャ、トントントン。色んな音が聴こえてきそう。
下宿賄付 渡辺館。
こちらも各種の鉢が瑞々しく路地を彩っています。
桜の樹も。
サイドはあまりよく見えないのですが、板張りになっています。
今のグーグルマップだとこんな感じ。
更地になった隣地、緑豊かな地所だったのですね。
渡辺館の下の、大きな山吹色の丸は「朋来居」という住宅だったそうです。
松本泰生さんのブログに、素敵な写真が残されていました。
大学の建物群そのものが、コの字の集積ですね。
そしていつも思うのですが、早稲田界隈は素敵なY字路、わかれ道が多い。
建物を彩る植物やお庭、豊かな気持ちにふわ~んと包まれます。
サイドに廻ると、棕櫚がすっと立っていました。
↑西早稲田2丁目、南栄荘。
旧屋号は「天龍閣」。
西早稲田1丁目
この建物がなくなる時がきたら、絶対泣いちゃう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うっとりするような戸建住宅もいくつか見つけられます。
素敵な窓ガラス
住宅地図みたいな玄関のガラス戸。
諏訪の方に近づくと、雰囲気のあるお宅が何軒か見つかりました。
数少なくなったとは言え、こうした建築を今でも目にすることができるんですね。
昔、インド大使館邸入った辺りに、何か気になる物件があった記憶があります。
写真も撮った気がするのですが、どこだったんだろう。。20年以上前になりますが、もっと旧い建物に気を配っていれば良かったと改めて痛感するところです。
下宿とか旅館がみんなこの形なら、本郷はどうなのかな?と思って本郷方面の昔の航空写真も調べたら、同様の建物がいくつも見つかりました。
残っているものはこちらも数少ないでしょうが、中村遊郭から始まった「コートハウス」建築を観察する新たな視点を持って、また本郷方面も歩きに行く予定です。
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by onnbubatta
| 2019-01-26 10:02
| 神田川支流
遠ざかる海。海を見ていた衣浦歓楽街跡(橋跡、暗渠入り)
昨年10月、愛知県碧南市の「衣浦遊郭」跡のこの建物、行かないと早々に無くなってしまう気がして、どうしても急ぎ見に行かないと・・・と、訪れました。
名古屋から一時間弱くらい、名鉄三河線「新川町」から徒歩圏。
旧い地名では「沖見平」、「常盤浦」
高台の縁、今は埋め立てられてしまった沖を望む位置に立っているのです。
この鱗のような窓ガラス、何度夢に出てきた事でしょう。何枚ものガラスたち。
かつては客達が海を眺め、今は誰が遠くなった海を見ている事やら。。
残留思念か、窓の内側自身か。
追記:解体済
(この箇所を「持ち送り」と呼ぶことを教えてもらって以来、注視してしまいます。名称を知るって大事ですね。)
鮮やかなタイル円柱!!
この日は天気がいま一つでしたが、救われた気がしました!
「渡る」という行為にはいつだってどきどきしてしまいます(どきどきしてばかりだな。)
衣浦の街は、個々の旅館跡建物以外にも見所が沢山あります。
私は普段、水路跡歩きを生業としているのですが、「新川町」駅を降りた瞬間に嬉しい悲鳴が上がりました。
何か埋まってる!
この地でも、しっかりと蓋暗渠にも出会う事が出来ました。
この水路の先は・・・
水路跡にguideされたような格好です。(嬉しき。)
鈍色の空のもと、ピンクの濃淡が今にも残る強い印象を与えてくれました。
過去住宅地図を見るとお菓子屋さんだったようですが・・・
今はお布団屋さんでしたが、消えかかった「おもちゃ」の文字がうっすら。
「消えかかり」「名残」「痕跡」をテーマに街歩きしている者には、訴えかけてくるメッセージのようなものです。
パチンコ屋さんも、趣ある建物です。ギラギラしてなくて。
昭和25年12月に架けられた「学校前橋」でした。
来る前に、旅館街のメインストリートあたりをGoogle SVで確認している際に気になっていた建物。(スクショです。)
二階部分の空洞、、くり抜いたような爆発でもあったかのような。
そうなっちゃったのか作為なのか、非常に心がグラグラしたのです。
昔の地図では、もうワンブロック駅寄りに「郭前」の表記の街区が見て取れました。
かつてはこの辺りに地域の法務局、劇場、ボウリング場?もあったようですが、今は本当に静かな街でした。(ご飯食べる所も見つけられず・・・)
このあとの行程として名古屋市の港陽園遊郭や、尾頭橋の八幡園遊郭探訪も計画していたため駆け足になってしまいましたが、もう一度じっくり歩いてみたい街でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こちらは尾頭橋の旅館の痕跡。扇型の何か・・・
こうした「ヒトガタ」のようなものにいつも惹かれて、あちこちふらふらしています。
・・・・・・・・・・・・
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by onnbubatta
| 2019-01-20 18:24
| 愛知県
|
Comments(0)
暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体 その他徒然(適当です)
by onnbubatta
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