慶応志木高校北側から始まる野火止用水分流(浜崎流末)の蓋暗渠(ヒューム管露出地点有)

慶応志木高校の北側から、谷戸地形を利用されて流されていた
野火止用水分流跡暗渠(浜崎流末~名称は「郷土の地名」の地図ページに拠りました)を歩いてきました。

暗渠の好きな方なら必ずハマるであろうエレメンツが充満していました。
ここ数年の中では最も興奮した行程。

d0250051_13312727.jpgあ、ちょっと違う所に赤いフラッグ立っちゃった。
慶応高校左上の箇所がスタート地点です。






















d0250051_1693841.jpg慶応志木高校から新河岸川にかけて切り込まれる谷戸を利用して、野火止用水が通っていました。
野火止用水は玉川上水から、飲み水にさえ事欠いたといわれる当地へいくつかの分流を経てはるばる引いてきた水。





「貯水池」は後程、かなり後の方で目印として登場します。



慶応志木高校敷地内にもこの野火止用水分流が素掘りの水路の形で残されているとの事。中に入って見学したかったです。(どう見ても慶応の保護者には見えないと自覚)
塀に沿って歩いて行きましたが、敷地の広大なこと。武蔵野の森の面影を今に伝える貴重な空間という印象を受けました。
ちらっと騎馬像みたいなのが見えて「誰かしら?」と気になったのですが
帰って調べてみると「牧童像」でした。更に沿革として、慶應義塾獣医畜産学校・慶応義塾農業高校を経て
今に至っていることを知りました。納得。


慶応志木高校の高翔寮・友隣寮・跡地に建つマンション脇の緑地「慶応ふれあいの森」から
歩いて行きます。「慶応高校前」バス停至近。

d0250051_13424051.jpg































d0250051_1418427.jpg


右方向が高くなっていて、たぬきが生息していた事から「大原ぽんぽこ緑地」と名付けられています。
左側は更に低く谷戸地形になっており、元々あった谷戸を利用して水を引いていたのでしょう。
古い地図で確認すると「宮戸境久保」と呼ばれる朝霞・志木の市境を成す谷戸になっており、
現在でも「谷津地児童公園」等としてその名を残しています。






↑舗装してあるけれど、山の土が流れてきちゃったのかな。



d0250051_1628281.jpg橋跡を連想させる



































d0250051_1603536.jpg道路と最初に交差する地点で、今まで歩いてきた水路跡を振り返ったところ。(北・上流を向いて。)
コンクリート造りの四角い構造物の上に、微妙に盛り上がったマンホールが乗っかっています。
水を想起させる構築物。


















次の交差部までは通常の側溝のようなさらっとした蓋が展開します。
それに続いて表れるのがこんなタイプの遺構。
d0250051_1624527.jpg片側コンクリート蓋に縁石が沿っていきます。
色々途切れがちな意匠も味のうち。


























d0250051_1671082.jpg


続く交差部にて、我らを導く芳香が。
コンクリート敷石に鎮座するマンホールが、座布団に座っている遣り手婆さんの如く。
そしてその奥にある水路を明示しているのです。



















d0250051_1675027.jpg魅惑の小蓋の始まり。はあはあ。
ちょっと息も絶え絶え。倒れそうになります。
わかっているくせに。。とつぶやいてみたくなります。


















d0250051_16102125.jpg

蓋の上を歩くとかぽかぽと音が響きます・・・
なので脇の土の方を歩いてみたり




























d0250051_16124572.jpg少し歩き進めると、左側(西側)との間が再び明瞭になってきます。
前述のように、元々あった谷戸を利用しているのですが
水路は一段高い所を通っているらしいのです。



これが私を惑わせるもので、初めて来たときは新河岸川への落ち口、つまり下流から
遡上したのですがそのまま谷戸の底を歩き通してしまい、この野火止用水分流跡には出会えませんでした。










d0250051_16151583.jpg民家の車庫部分が張り出している箇所に差し掛かり、一区間蓋暗渠が途切れて
階段を降りることになります。
これは上流側を振り返ったところ。






















d0250051_16173645.jpg数メートル民家の車庫部分を歩いて、短い階段を昇り再び中腹の用水路跡に戻ります。
素敵な保育園ライフが約束されているんだろうな。
























d0250051_16222191.jpg上流側を向いて。
この辺りから崖側の管が目立ってきます。
右側の蓋脇には護岸のような構造物も。




























d0250051_16231231.jpg護岸?カーブのついた外枠の名残のようなものも恰好いい・・・
次から次へと変化があり、歩いていて気分が高揚してきます。

























d0250051_1623502.jpg

千手観音がくねくね踊っていました。





































d0250051_16265615.jpg先程の階段以来、久方ぶりの外部と連絡地点。
崖上に通じているのは多分この地点のみ。
ここでは崖下にも降りる事が可能です。

此処から先は、隔絶された水路跡を究めていく感じ。
修行僧の心境に至ってます・・・

この階段地点を境に、蓋脇の状況が土→石混じりの土、と
変わっていきます。










d0250051_17132062.jpg砂利砂利している中、周囲は家々のベランダが向いて裏手感が漂ってきますので
真っ直ぐ真っ直ぐ早足で進みます。
























d0250051_17153838.jpg犬とか連れて歩いたら怪しくないのかも。犬欲しい・・・
でもここはれっきとした野火止用水分流跡!歴史散歩しているんだ~
























d0250051_17193257.jpg艶めかしい屈曲の凹み部分には、崖にひっつく「サルノコシカケ」のような構造物(自然物?)とグリーンの桶。


























d0250051_17294456.jpg































d0250051_17301912.jpg継ぎ目の蓋、交換してありました。
真ん中に挟まれし新入り、いつしか両隣のようなグレーに染まっていくのでしょう
























d0250051_145942100.jpg曲線美をとくと堪能。
ここの駐車場、ずっと残っていてほしい。






「崖下にはやはり駐車場だよね」。と独りつぶやきたくなる。



d0250051_1445353.jpg再び、蓋に沿う外枠が姿を表してきました。
飽きさせないなあ。

こういう細かい造りの観察が楽しくて、歩き疲れを一切感じません。
脳内から麻酔みたいなのが放出されているのかも。

ハイテンションで進んでいきます。














d0250051_17363890.jpg擁壁やや崩壊箇所































d0250051_14464438.jpg崖下が駐車場なので、視界が開けている場所。
中でもこの場所は日も当たるのか、植物が生えています。

現在地水路敷きながら、擁壁が白に変わると、地中海の島のような明るい雰囲気が漂ってきます。

















d0250051_16185771.jpgこの箇所は航空写真から見てもうっとりするうねり具合。
竜やら蛇やらが優美に、自在にしなっているみたいですね。
画像がちょうど雪化粧していて、カーブが引き立ちます。






d0250051_1554434.jpg壁面から管が斜めに差し込んでくる地点。
蓋と土との境目が曖昧になって埋もれかけています。


























d0250051_1511042.jpg擁壁壁面が幾何学模様になり、接地面には崩れかけの枡のような構造物がありました。
蓋もやや乱れ気味に連続しています。
そして、写真でもわかりますが蓋脇が未舗装→舗装面へと一瞬切り替わります。
(ここも境目は曖昧。)















d0250051_159941.jpg















先程までは水路敷きより一段低い場所に貼り付くように駐車場が伸びていたのですが
この辺りから戸建街になり、谷戸に面しては貯水池も見られます。

この先が、この暗渠のクライマックスとなっていきます。
突如としてヒューム管が露出している!

d0250051_15232598.jpg蓋がいきなりコンクリート製のヒューム管へと変貌したのです。
行きつく先には四角い排水溝が待ち受けて。
起承転結のまさに「転」。
聞いてないよ!






















d0250051_15274892.jpg冷めやらぬ興奮をなんとか抑えて排水溝までくると、これまでにはほぼ感じなかった勾配ぶり!
ヒューム管ごと急坂を下るとは。(僅かな区間ですが)























d0250051_15354368.jpgほぼ平らに置かれたヒューム管と斜面に置かれたヒューム管が、排水溝で中継しあっているさま。



























d0250051_15385275.jpgヒューム管上部の継ぎ目観察に浸ります。

ここまで斜面の中腹をほぼ平坦に歩いてきたのに
最後にこんな形で高低差を体感するとは。























d0250051_1545320.jpg

ヒューム管を過ぎると、蓋暗渠に戻って両側には家々が建ち並びます。
上流側を向いて撮影。緩い傾斜の暗渠風景になります。

ここは日当たり良くて明るい。























d0250051_15243353.jpg

更に下って、再び上流側を振り返った所。ここまでくると完全に平坦な低地で
ゴール間近。大分長くなりましたがもう少しお付き合い下さい。






















d0250051_15275952.jpg

ここで二手に分かれていました。右が下流方向。
初回訪れた時はこのT字路のTを進んで遡上してしまいました。
そうすると谷戸の底だからなのですが・・・





















d0250051_1534598.jpg上流側に続くこの蓋暗渠を辿ると、






























d0250051_1534880.jpg路面がコンクリート蓋から、インターロッキングブロックに変わって、先程話題にした貯水池の所に出てきます。
ここで蓋暗渠は終焉。(始まりでもあるけれど)
ちょっとした緑道のようなスペースとなっています。





緑アイコンが分かれ道のT字路、赤アイコンが貯水池。
地図右方向が下流で、右下のうねっている道がずっと辿ってきた(ヒューム管などがある)水路敷。



引き返して、新河岸川の合流点まで歩いて行きましょう。

d0250051_16265788.jpg

ボートが立てかけられていました。
暗渠が好きなのは、本体もそうだけど、傍らのこういう無造作感。
前後の文脈を超越した唐突感。








d0250051_1629263.jpg

公園の遊具のようにタイヤが縦に並ぶ。
現代の護岸よろしくと言わんばかりに。
ここは今回の暗渠道で一番広い空間。
























d0250051_16311019.jpg

蓋暗渠は、しばらくハイスピードで屈曲を繰り返して行き
ちょっとした混沌空間に差し掛かります。


























d0250051_16344062.jpg

蓋の上にフリルのような影が連続して落ちていますが、
なぜか脇に洗濯槽(鉢として転用されている)が陳列されていた事によるものでした。


























d0250051_1638899.jpg

































d0250051_16425743.jpg

ようやくゴール地点です。
突き当たった先は富士道という古い道?
富士道はここから登り坂になるのですが、ちょうど登りはじめに焼き団子屋さんがあって
旅の始まり感が盛り上がります。
峠の力餅みたいな。

















d0250051_16464918.jpg

マンホールだらけ。
原子核のモデルを思い出します。














d0250051_16475322.jpg

田子山樋管という施設に接続されて、新河岸川への落ち口となります。
さらに新河岸川を樋管で横断して渡っていた箇所(市役所の方)もあるのですが、ここは違うかな?
対岸にちょうど水門も見えますが・・・







玉川上水の水がここまで届いているって・・・
私は玉川上水の取水口から歩いたわけではありませんが、改めて昔の人が築いた大いなる遺産を
目の当たりにし、足裏で感じ取り、感動に震えそうになりました。


d0250051_1714972.jpg谷戸の縁にあたる部分(雪が残っている南側斜面・崖の中腹のような箇所)に用水が流されています。
谷戸の中央辺りの市境線付近が谷戸自体の底であり、現在は道路になっています。



ちょっとこの点で惑わされたりして、翻弄されたファムファタルのよな小悪魔暗渠でした。


・・・余談ですが、慶應義塾獣医畜産学校、ルーツは神奈川の蟹ヶ谷だとか。
蟹ヶ谷行ってみたかったので、このご縁で歩いてみようかな・・・とそわそわ。


当分の間、この辺りを彷徨う事になります。



~~~追記:初回訪問時は前日の雪で別世界でした

d0250051_21582358.jpg




d0250051_21575595.jpg

[PR]
# by onnbubatta | 2014-02-28 17:19 | 新河岸川

夢見ヶ崎周辺を歩く~加瀬山掘削地点・水権現・加瀬堀暗渠・谷戸地名ほか。

暗渠を辿りつつ、夢見ヶ崎周辺を前回より迫って歩いてみたいと思います。
「加瀬堀」暗渠と「谷戸」地名については、後半の登場となります。

d0250051_1405572.jpg

新川崎駅を出て左(西)、鹿島田跨線橋脇の水路跡。
新鶴見操車場跡地に建ったマンション群によって、さらに窪に深みが増しているようです。

刻んでもないのに、刻まれているという。→ポエム

此処を出て、前回少し触れました「テニスコート脇」も抜けると
(テニスコートも暗渠と仲良しだと思う・・・ゴルフ練習場のように)








d0250051_14897.jpg

川崎市立の日吉小学校脇を片側ガードレールに隔てられて展開していきます。




























d0250051_14111536.jpg

こういう所には必ずいらっしゃいます。

















d0250051_14154913.jpg

お姿はこんな感じ。
つやつやした御榊が供えてありました

この先暫く、小倉用水の暗渠道と寄り添う形で進みます。
























d0250051_15222338.jpg

加瀬山の山裾エリアに足を踏み入れてきています。
夢見ヶ崎目前で道がこんもりと盛り上がってきました。(気持ちも)


麓感が高まるのですが、このこんもりは一瞬で盛り下がるのです。
地形をいじった痕跡かも・・

同様のこんもり体験はさらに南麓のほうでも体感できました。


ガラスの建物は日吉庁舎。







d0250051_15274228.jpg

加瀬山の山裾を物語る何かかもしれない。
このあからさまな盛り上がりは。

信じている。






























濃い青線が今歩いてきた水路跡、明るい水色は小倉用水跡(後述)、
オレンジの囲みは大まかに加瀬山の削り取られた南東部分であり、加瀬山の最も高かった地点
d0250051_15291198.jpg

















・・・地図に水路線を加えてて改めて思い出したのですが
今歩いてきた水路跡(上の地図濃い青線)、「横浜水道跡」の通ってた辺りと近似しているのです。
「横浜水道跡」が示された元地図(幸区まちカルテの中の、大正時代の二ヶ領用水のすがた)の複写が
ちょっと広域で見づらいのでアレなんですが)

横浜水道は、横浜に送水するために明治初年二ヶ領用水(鹿島田の堰付近)から分水して、
夢見ヶ崎~江ヶ崎~鶴見~子安のルートで水路建設工事が始まったものの、木樋菅の継ぎ目から水が漏れてしまい、横浜まで水を届ける事なく工事が中止となった。現在の操車場内に当たる土地には横浜水道建設
の過程でつくられた「砂溜池」とよばれる池があったという。

三菱ふそうの工場内を線路に平行するような形で南下し、日吉小を貫通してその先で少し曲り、
小倉小の東を通って鶴見川に達するまでの線で上記の資料には示されています。

d0250051_11521210.jpg

資料を参考にざっくり示すとこのような感じ。
歩いてきた水路跡と広域でみるとほぼ重なるけれど
感覚的にはう~ん・・・




横浜水道と何か関連のある道なのかな?
よくわかりませんでした





ここから、西にグイッと曲り昇って加瀬山に再度アタックします。

d0250051_15424789.jpg
片隅に、水に関係のありそうな石造りの何か?を見つけました。
これは何なのでしょう?枡のような?




















d0250051_15463231.jpg

おしみず坂。右が加瀬山の山部分、左は削られて急激な崖地様を呈しています。
削られる前までは山上に通じる鞍部のような登り坂でした。
























d0250051_15515843.jpg

坂を昇る途中の右手にお地蔵さまと南加瀬貝塚の碑。
加瀬山が海にぽっかり浮かぶ小島であった時代の名残か、貝殻の9割がはまぐりであったとの事。
縄文人、焼き蛤でも食べていたのでしょうか・・・

お供えのぬいぐるみが色を添えてなお可愛い。
人面花瓶も。












d0250051_15532436.jpg

ちょっとした階段を降りて行くと小さな祠が。






























d0250051_1554687.jpg

水の権現様。
「尾」の次の字は何だろう・・・「眥」→この字で「し」と読むようなので
「尾眥水」これで「おしみず」?

おしみず坂というくらいなので
清水が湧いていて、その水の畔にいらした神様なのかなとも。
















d0250051_1604610.jpg
庁舎の駐車場、この一角も削られたような匂いはあります。
(水が湧いてそうな感じも)

この場から眺めると、長さ750m余りという加瀬山の東の端っこ感が
伝わってくる気がします。






d0250051_16303.jpg

削られた部分がよくわかる場所。
ここの土が大量に切り崩されて川崎駅前に運ばれ土盛りされて東芝堀川工場の礎となりました。
削られた山肌側には防空壕が作られた時期もあったのだそうです。

跡地には国鉄新鶴見球場。

此処に立つと球音が響いていた時もあったとは。


現在は公園・高齢者施設・マンション・社宅等が建っています。




d0250051_1692171.jpg

削り取られた跡を埋めるように建つ官舎






























d0250051_16112370.jpg

前回のブログ記事にもあった夢見ヶ崎稲荷神社手前まで、結構鋭角的に(躊躇なく)削られています。











次に大々的に掘削された加瀬山北西部に向かう前に、冒頭のほうで触れた小倉用水跡をご紹介します。
夢見ヶ崎の南辺り、地形は平坦な場所にあります。



d0250051_1302834.jpg

現在の姿はこのようなサッパリとした緑道。
今の小倉小学校近辺には「小倉池」というため池があり、江戸享保年間に当地に二ヶ領用水が分流され
元々あったこのため池とつながり小倉用水の一部のような形に。

近くに鶴見川の大河を見ながら、河床が低く水を引けなかった土地。小倉用水がこの地の水田を潤し、
幸区一番の石高を示した。
また桃やビワ、イチジクの栽培も盛んであったという。

しかし近隣の宅地化の進行に伴い、戦後の昭和27年に埋め立てられたという。

小倉池の伝説として「禁断の玉手箱」というものがある。
鉈を池に落としてしまったヨンキおじいさんが自らも池に落ちてしまい、行方不明に。
三年後、本人の法事中に池の竜宮城から玉手箱を携えて元気に帰還。

ここからは展開が容易に想像つきます。玉手箱を開けてしまい、帰らぬ人に。
「見ちゃダメ、開けちゃダメ・・・」で悶々としたのでしょう。箱には龍の鱗と小さな観音様が入っており、
近くの無量院にはその伝承に因んだ竜燈観音が祀られているのだそうです。

また近隣の小倉神社では水神様として河童が祀られているため、毎年7月にキュウリをお供えする「きゅうり祭り」が行われているそうです。

今は年間通してキュウリが手に入る時代・・・キュウリの盛りの時期に改めて気づくし面白いですね


d0250051_15204294.jpg

いつもお世話になっている街の地図看板には、小倉用水がまだ水色の水路線で示されていました。
(町界のところ)

池附、という字名も見えます。






加瀬山の北側へ向かいます。

d0250051_1545523.jpg

北加瀬の「山崎」バス停そばにあった庚申塔

この看板、他の場所でも見ましたがお堂を守護しているような目つきが
気に入っています






















d0250051_1564747.jpg

山崎、も加瀬山につながる字名でしょうか。






























d0250051_15184251.jpg

近くにあった地図看板、旧字名が記されているのが有り難いです。













 そして、加瀬山北西部へ。

d0250051_153435.jpg

更地の奥がJRのマンション。順番に建替えしているのか、この更地はどう利用されるのでしょうか。

かつては左の加瀬山はここの更地部分にも山裾を拡げていたことでしょう。
今は分断されて階段が見えています。


新鶴見操車場で働く従業員の社宅「北加瀬国鉄官舎」のために切り崩された箇所です。
ケーキの断面を見ているような心境。

d0250051_15222582.jpg
上空からの画像で見るとこのような感じ。
加瀬山南東部よりも更にスパっと切り込んだ印象を受けます。








d0250051_1544761.jpg
現在の北西山裾

加瀬山は北鹿・南麓とも本当に際キワの箇所は、広い地所を有する旧家?が張り付くような形で囲んでいる
のでなかなか裾部分を視認することが難しいなか、この周辺は麓や断面を見ることが出来ます。


続いて、ここの西に隣接した掘削地点、現在の白山幼稚園辺り(水色)
d0250051_15385353.jpg

水色エリア周辺は白山古墳や第六天古墳が存在した場所ですが、民家が建て込んでいたりして
様子を確認することが出来ていません。





白山古墳の裾、白山幼稚園西辺りから出土した秋草文壺(国宝)は国立科学博物館東京国立博物館に収められています。

また、矢上川に面した辺りまで延びていた山裾を掘削した箇所(紫色)、
ここもはっきりとは痕跡を感じ取ることは出来ませんでしたが、昔の地図と重ねてみると
二区画程、周囲とずれて斜めに配置されて家が立ち並ぶブロックがあるので
そのあたりなのかな、と推測します。

d0250051_15451294.jpg

ただ水色掘削地点に関して、この南北に通る道が途中マドレーヌのてっぺんみたいに盛り上がっていて、私の足裏は山の痕跡を感じて小躍りしていました。
写真では判りづらいかもしれませんが・・


ここの土砂(古墳があった場所・・・)は昭和12~13年、三菱重工業の埋め立て等に使われたとの事、
すぐ近くにある加瀬山北の現三菱ふそう、(ここは元々三菱重工業)のことを指すのでしょうか?
道路を隔ててお隣の埋め立て用に供されたのでしょうか。

「川崎の地名」の南加瀬村の項に拠ると、「昭和12年頃から、加瀬山を切り崩してその土を売る事が行われた」とあります。
「埋土に困っているなら、削ってもいいさ」・・・世を人を救うアンパンマンみたいに思えてきました。
身を削り、血を(地を)売る、みたいな。

同時期、矢上川の両岸に土地を持っていた日吉村は、川を境として横浜市・川崎市へと分かつ事になったそうです。(これには双方の水の利用が大きく関わってくる)

前回ご紹介した「史蹟 夢見ヶ崎」の手描き地図には、更にその西隣の「帝國発條用地埋め立て中」
の記載があります。(現在はマンション他)




オレンジアイコンが、道路の盛り上がり場所。


d0250051_1553275.jpg

その近くにあった庚申塔。

庚申塔、やっぱり多いな~。













そして、面白いのが、この近くに「谷戸」という古い地名があって、バス停や商店街名として残っています。でも周囲には歩いていて全く谷戸っぽい風景はありません。劇的な地形変化を以てしても、何かずっと心に引っ掛かっていました。言葉巧みに惑わすなあ・・・

「川崎の地名」に拠れば、当地における「谷戸」地名は通称地名だとし
沖積低地なのに谷戸と呼ばれる理由は不明。加瀬山の西北に連なる丘陵が削られる以前は、JRアパート辺は加瀬山と末端丘陵との間で、谷戸地形を呈していたという。恐らくそれによる地名か。」

なのに」と口語で示される辺りに凄い親近感。
古地図を眺めたりしても今一つ谷戸のイメージが湧いてこなかったのですが、大正15年内務省の地図というのをみさきさん(ありがとうございます。)に教えていただいて観察していたら

d0250051_1131379.jpg

矢印の辺りがこんな感じで食い込んで示されていたんです。
これは自分には腑に落ちる谷戸感。






谷戸商店街で「里芋のコロッケ」を一つ買って栄養補給していたら、気になる箇所がありました。

d0250051_11133063.jpg
いかにも水路跡。谷戸バス停がある場所からは暗くてよく見えないので、南に回り込んで追跡しています。















d0250051_1122953.jpg
歩道端部分に沿う一角がいかにも怪しいです。






























d0250051_1123462.jpg

越路バス停そば。
この摩耗して碑が読めない祠を最後に、この辺りの痕跡は消えるのですが、
先程の水色アイコンより北側も追ってみます。
しかしこの祠の囲まれ方が頑丈。ただならぬ気配を感じるのだけど。
















d0250051_11572713.jpg

今見てきた暗渠、街の地図看板にも水路線が残っていました!画面中央辺り。




























d0250051_11315922.jpg

そして谷戸バス停の通りの北側にワープすると。
思いがけない場所に野生の暗渠がありました。
この中を歩行するのはちょっとためらわれるので、見える位置まで回り込んで行きます。



















d0250051_11352622.jpg

家々の間のグリーンベルトのような未利用地となっています。
今にも水が流れてきそうな光景。

























d0250051_11493878.jpg

回り込んで道路と交差する場所。ここから先(北)は歩道の一部になっていました。



























d0250051_1152119.jpg

暗渠跡が明瞭になる最後の出口地点には庚申塔がありました。
写真左のどっしりとした覆屋です。












前述の「大正時代の二ヶ領用水のすがた」という図でこの水路跡について調べると、「加瀬堀」という用水かその系統として示されていました。

上の写真の場所はちょうど古くからの道(鎌倉街道・小杉道)が交差する出会いの辻であったようで、

d0250051_1212613.jpg

江戸~明治時代まで高札場(命令・伝言などを伝える告知板)があり、
現在は二対のお地蔵様と庚申塔が祀られています。

すぐ脇を流れるこの用水に関する札も出されたのでしょうか。




d0250051_12174418.jpg

目深にキャップを被った様が、ファンキー&クールでもあり、
近隣の人々の優しく温かい気持ちを感じます。






















道の「叉」具合、旧い道の出会いを感じて萌えます。
はたして道灌さんは通ったでしょうか。
野生の加瀬堀暗渠?、画面左斜め下辺りにグリーンの帯状の連なりを示していて綺麗ですね・・

右の広い空間は日吉中学のグラウンド。


d0250051_13193599.jpg

前述の「大正時代の二ヶ領用水のすがた」図を参考に、大まかに加瀬堀の流れを地図で示してみました。
どのあたりがメインの加瀬堀なのかまだ調べがついていないのですが。


以前、猫またぎさんが川崎の暗渠を連載されていた時から「暗渠溢れる川崎」のイメージを持っていたのですが、当初はあまり暗渠らしい道に出会うことが無かったものの、終盤になって好みの暗渠に遭遇することが
叶いました。加瀬堀は歩き回った後の「ご褒美暗渠」、としての位置づけが強い(個人的に)水路で、ほんの短い区間の追跡にも関わらず旧い祠などに遭遇する確率の多かった流れでした。


d0250051_13285442.jpg

ここもはずせない、矢上川と矢上橋。
奪衣婆伝説があるそうです。
古地図を見ると現在よりずっと曲流しており、蛇行跡が点々としている様子が描かれていて
興味深いです。




元々は両岸とも日吉村でしたが現在はこの水面を以て、川崎市と横浜市の境を成しています。

右岸(現在の横浜市)側は、元々東の川崎側とは異なる灌漑用水を利用しているうえ、電鉄が慶応大学誘致を契機に横浜市側の水道を大学に給水するように要請したのに対し、一方で左岸(川崎側)は二ヶ領用水の恩恵を受けている、といったように、それぞれの土地利用・水の利用方法の方針の違いが明らかになったことが日吉村が分かれた要因だったようです。



おまけ。
d0250051_13452378.jpg

鹿島田の方にあったハーモニカ状の橋跡。
すぐお隣の堀跡(親水緑道となっている)には橋名がついていたようですが、こちらはいまなお判明せず。







d0250051_1442137.jpg

三菱ふそうのカッコいい部位。
ここの道も水路跡。





























d0250051_1462680.jpg
組み合わせの妙が非常にそそられるお店でした
















寄せていただいたコメントで「海を見ていた道灌さん」という視点を改めて頂戴し、春の夢見ヶ崎周辺再訪&矢上川を渡って「元はつながっていた?加瀬山と日吉台地体感」の日々が待ち遠しいです。


・・・いったいどんな岬だったんでしょう。英語でもcliff 、cape、 point、って色々呼び方が違うし。。
[PR]
# by onnbubatta | 2014-02-20 14:15 | 神奈川 | Comments(10)

夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など

「崎」のついた面白そうな地名に惹かれ訪ねてみました。


初めて聞く地名では無く、pcのお気に入りページ最下段にずっと「夢見ヶ崎」を冠したサイトがあったのです。

以前,日吉のまむし谷と「松の川」に繫る暗渠を歩いたあとに
周辺の地歴なんかを色々調べている際に出会ったサイトだと思うのですが

今見ようとすると検出出来ない・・・残念。


夢見ヶ崎地名を擁する「加瀬山」の独立丘の形も異彩を放っています。
孤高のお姿でもあり神々しい。絶対沢山の籠もったものを内包していそう。

現代目に見えている姿は独立丘ですが、時代によっては海に浮かぶ島だったり
横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれませんね。


d0250051_10472054.jpg

左が鶴見川支流の矢上川。
最寄駅は横須賀線の新川崎駅。S55年開業の比較的若い停車場です。











そもそも「夢見が崎」というのが現代風のキラキラネームのような印象を受けるのですが
そうではなく、この地を訪れた太田道灌の故事に因んでいるという事で、
ならばいつ頃からそう呼ばれるようになったのか、また地形の変遷など机上で調べているうちに

やはり現場に行かねば・・・と。

道灌さん。
子供の頃近所に「道灌山」という地名があり深く考えることもなくごく普通に接してきました。
ここ川崎の地でも(いや、関東一円に)足跡や伝承を残していて
改めて不思議な響きを与えてくれるのです・・・


夢見る頃はとうに過ぎましたが、初めての新川崎へ。



d0250051_1054987.jpg

新川崎駅を左に出るとすぐに見える加瀬山のお姿。
手前の工事地帯は新鶴見操車場跡地の一角。

新鶴見操車場跡地は一部が開発されています。





私は「小倉跨線橋」からの荒涼とした風景~広大な空き地の一面のススキ野原とポツンとした箱のようなモデルルーム・・・も気に入っています。



さて加瀬山に登るルートは複数あれど、最初は北麓から登頂する予定。

山には川崎市「夢見が崎動物公園」があり、そこまでの道程にはアライグマのしっぽマークの
サインが路面に貼られているので忠実に辿ります。


d0250051_112428.jpg

テニスコート沿いの暗渠。
(後々追ってご紹介するかもしれません)




























d0250051_1142356.jpg

長毛種の夢見・キャット・見返り。

「いい夢見ろよ」













d0250051_119426.jpg

「夢見が崎公園」脇の階段を昇ります。
標高30m余にアタック














d0250051_11111565.jpg

蓋的なものが
































d0250051_11114658.jpg

当然といえば当然・・・

















d0250051_11184781.jpg

一気に登る感じなので息が・・・
















d0250051_1124568.jpg

昇った先は了源寺という寺社や墓地。
いきなり墓地があったので少しの驚きが。

そして山の中に元々は11基(それ以上あったという説も)はあったという5~6世紀にかけての古墳の跡を示す標が幾つかあります。
















d0250051_1130753.jpg

西端の方にあった白山古墳(4世紀後半築造、南関東では最も古い古墳)、第六天古墳は消滅しています。
(白山社・第六天社と弁天社もかつては存在しましたが、大正4年に天照大神に合祀されて現存せず、社地のあった丘も崩されて消滅)



d0250051_1139610.jpg

こんもりした高まりの頂に祠が載っているのが見えますが、蜂がタムロしているとかで見学不可能でした。
(9号古墳&道灌の碑があったらしい・・・です)























d0250051_11404144.jpg

意外に広い空間の山頂には、古墳跡や神社・お寺・墓地・動物園と実にいろいろなものがのっかっています。
東山麓付近には貝塚も。







子供たちの学習用の「日吉のタカラモノ探検」の様々な看板が設置されていて、それを眺め歩くのも楽し。


 「加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島だった」 

そんなわくわくするイラスト入りの説明版もありました。
縄文海進の頃(約6000年前)・・・に思いを馳せると何とも言えない場所に立っているのだと感慨も深いのですが、
「夢見が崎」という健康的で、華やかな明るい地名の音をイメージして臨んだなか、偶々かもしれませんが気づくと山頂公園には思ったより人も少ない感じ。小さい子も遊んでいなかったし。

急に風が起こり、何だか寂寥とした空気が流れていて、「早く下山したいな~」という気分に支配されてしまったのです。

そっち方面の感受性は鈍かったはずなんですがね・


折角昇ったのに・・・山頂の神社群や富士山が見えるポイントもあったようなのですが
早々と等高線の筋を横切って下界へと。


d0250051_124130.jpg

室町時代の武将太田道灌が見晴らしの良いこの地に陣を敷き、築城を計画した晩に
自分の兜を一羽の鷲に持ち去られたという夢を見、築城を断念したという故事も記されています。




もののふにとって大事な兜。それを持ち去られたのは良くないお告げというか夢占ととらえたのでしょう。

その兜が南の鶴見川対岸の山に埋められているという言い伝えもあるそうです。
(行ってきました。また後ほど)


d0250051_12124032.jpg

地形みたいな雲が出ていました















d0250051_12133269.jpg

トーテムポール、子供のころから好きなんですよねえ。
箱根小涌園に昔あったやつとか。

























南山頂から下界へ降りて行きます

d0250051_12194977.jpg

またすごい張り出した位置にお稲荷さんの鳥居が。
横に階段があるのでそこから降りていきます。












d0250051_12213773.jpg

階段を降りて山の中腹あたり。
下アングルから眺めるのもいいな。上部がすっきりするから



























d0250051_12253054.jpg

道祖神が二体

















そして目に入ってきたのは・・・


d0250051_12271072.jpg

これ。
東京電氣
最初全く何のことか解さなかったのですが、「氣」という「気」の旧字を使用しているので面白いな、旧い
ものなんだろうな~くらいにしか思っていませんでした。

















調べてみると
「東京電気」とは東芝の前身。


明治41年、現在の川崎駅前に「東京電気堀川町工場」(現ラゾーナ川崎)が創業、白熱球等の生産を開始する。工場建設に辺り、大量の土砂が必要となり目を付けられたのがこんもりした加瀬山の豊富な土であった。


①東京電気は加瀬山の南東部分一帯(真下のyahoo地図黄緑アイコン周囲)を買収、
夢見が崎から約4km離れた堀川町工場は非常な低湿地に立地しており、その造成や多摩川洪水被害による工場復旧の為に、トロッコで加瀬山の南東部分(境界杭のある地帯)の土が運ばれ続けたのだという。

山が切り崩された時期、土砂が運ばれた時期については資料で幅があるので、長い期間をかけて順次
山の南東部は形を変えていったということなのだろう。

(マルで囲んだ番号は三枚下の地形地図に対応しています)

土砂が運ばれた跡地は国鉄が買い取り、官舎や球場として整備されたのち、現在は特養施設や庁舎、JR社宅が建っている。

山の南東部は加瀬山の中でも一番の高まり・ピークを有し、現在の日吉交番辺りまで山裾が延びていたという。(真下の地図では夢見ヶ崎公園入口の交差点辺り)

「夢見が崎」の小字名が付けられていたのはこの辺りのようなので(現在は小学校名や公園名、商店街などには残る)、往時の突端だったのだと想像して感慨が深くなります。

(夢見が崎地名については後程綴ります・・・)





d0250051_11195665.jpg

いつもお世話になっている現地の地図看板に小字名が薄字カッコ書きで表示されています(天地が逆)












d0250051_11231232.jpg

これはまたインパクトのある字名・・・字ドブ。古地図では「土浮」とか「土腐」の表示。
低湿地に付けられる呼称として、全国的に分布しているようです。
こちらの近隣では「長ドブ」などの活用形も。





加瀬山の切り崩しはその後も地点を変えて続行されていくこととなります。

①上述の南東部の切り崩しに続いて

②大正15年(1926)には天照皇大神の西側の山が切り崩され、新鶴見操車場の鉄道用地の埋め立て用に運び去られ、その跡には新鶴見操車場で働く人々の住まいになる鉄道官舎が建設された。


③昭和13年(1924)、現在の白山幼稚園辺り、前述の白山古墳があった辺りも、北加瀬地区の軍需工場(三菱自動車)建設用や小倉・木月近辺の住宅地建設の用途の為に使用された。

④矢上川に続くこの丘も北方の埋め立て用に掘られた。
(番号は下の地図に対応)

d0250051_12513362.jpg

図は川崎市のサイトを引用・参考にさせていただきました。
ありがとうございます。








切り崩された場所の現況写真等々、次回以降ご紹介致します。

この地域で稀な「丘」は、豊富な土砂の産出先として近代工業の礎になったということでしょう。


d0250051_12581851.jpg

加瀬山の土が運ばれた、東京電気(東芝)堀川町工場跡地に開発されたラゾーナ川崎にある工場の遺構。
掘ったら加瀬山の土の成分とか検出されるのかな。

事件捜査とかで土の産出先とか鑑定するみたいに。



d0250051_1315754.jpg

「東芝ブラウン管発祥の地」


















d0250051_11224386.jpg

加瀬山から川崎駅前まで土が運ばれていったのですね・・・











************************************

「夢見ヶ崎」という地名について。

文献で出てくるのは江戸後期に編まれた「新編武蔵國風土記稿」の
「加瀬山」の項に、

「(加瀬山の)東方はづれを夢見崎と云。其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、
其夜道灌己がかぶとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所に飛去りしと夢見しかば、此事不吉なりとて
其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎とは唱るよし土人伝ふれども、
外により所なし


「外により所なし」が気に留まる。。。

土地の人たちの間でこういう話が伝わっているけれども、確かな事は明らかになっていない、という意味でしょうか?

また「加瀬山」そのものに関して、北加瀬村の記述に

南加瀬と当村(北加瀬村)の間に突出し、山の中央を両村の境となせり、高さ八九丈、山上は畑を開けり、
其畑の中に四五坪の小高き芝地あり、松樹二三株立り天守台とよべり。相伝ふ往昔太田道灌この所
に城を築かんとせしかど、故ありてそのことやみしなど土民の口碑にのこれるは前村にも戴する山の
条下にあり、さあらんには天守台の唱へは後人の名付しこと論を待たず。」


山頂には、道灌の故事に因んだ天守台と称えられるさらに小高い地があったようです。


太田道灌は室町時代の武将、なので夢見ヶ崎の地名は1400年代半ばから1800年代半ばの間には
いつしか言い習わされるようになっていったのか・・・と随分ざっくりとではありますが考えるに至りました。


調べる過程で、非常に参考になる貴重な御本との出会いがありました。
場所は武蔵小杉の図書館。地価上昇率ランキングトップ・槌音響く武蔵小杉で降りたのはじめてかも。。!
(武蔵小杉と聞くといつもケイン・コスギさんのお顔が浮かんでしまうのです)


慣れない書棚で何気無く手にした小さな古い本「史蹟名勝夢見ヶ崎」。
高橋東秀さんという地元にお住まいの方が書かれた、昭和12年発行された本です。
年月を経ているので、大事大事にそっとめくりながら読みました。

夢見ヶ崎への愛が溢れていて、この地の事をよく知らない私にもその熱い思いが突き刺さるような冒頭から引用、ご紹介をさせていただきました。


夢見ヶ崎の崗の麓に生れて育つた私は、實に明けても暮れてもこの丘の風情を身にしみて来たものです。
それゆゑ、世間からは、やれ夢見ヶ崎狂だの、道灌狂だのと半ば冷嘲的にさへいはれて来たのです。
私は只、夢見ヶ崎の歴史を瞭らかにし、又、この美しい風光を出来るだけ世に紹介して、久しい間の
念願を成就したいとのみ考へたのでしたが、時運は繞って(めぐって)遂にこの丘のある土地が川崎
市と併合しさうして大きな近代工業都市としてはどうしてもこの崗をわれらが安息の場所として考へね
ばならぬやうになって来たのです。そこで兼々考へてゐたことを記念するために、去る九年以来の計画
を実行しようとする其の一のあらはれとして、この小冊子をまとめ上げたわけなのです。・・・中略
唯、少しでもこの丘の面白さ、ゆかしさ、美しさが胸に落ればそれで満足です
。」


いやいやいや。
「夢見ヶ崎狂」ユメミガサキ・フリーク・・それは最上級の褒め言葉です。。。その道を突き進んでこそ。
この丘が好きで好きでたまらない方が、戦争前夜の9年来著そうとあたためてしたためた本、絶対に面白いにきまってる。


川崎の駅から南武蔵の平野を横切るやうに走る南部鉄道に乗つて、鹿嶋田といふ駅近くなる頃、
間もなく車窓に緩やかな形をした翠の深い丘陵の横はるのが眼に映るであらう。それが夢見ヶ崎だ。

夢見ヶ崎、斯う呼ぶと、その名稱(称)の響きからして、人の胸に何ごとか追走のさゞなみを湧かすであろう。
あれは、夢を懐く丘だ。なつかしい夢を抱く崗だ。

此の夢は、誰あらう太田道灌の夢だ。夢と伝えられて居るのだ。太田道灌は、武蔵の平野を縦横に馳驅
して、白雨の滴より数多くの物語を残した熱血漢だ。好もしいきびきびした男だ。
この好漢の夢であった、夢を抱くあの大きな崗よ、誰か、追懐の心を露の如く注がずに居られようぞ。

元の日吉村字北加瀬、同南加瀬の二つの大字に跨る丘なのだ。

試みにこの丘崗に立ち、佇み、膝を組み、雲の去来する彼方を眺めてみよ。
東に、多摩川の清く美しい波が、川原の小石に白く小さな泡を吹きながら羽田の海へすべって行く。
南に、鶴見川の静かな流れがある。
あらゆる木立の茂みから四季不断の武蔵野の風が湧き、丘を渉るいくつかの斜めな路が串通して、
そこに寺と社の風致を見ることが出来る。

・・・丘に立てば、追想の糸はどこまでも続いて行く。」


東秀翁が何歳くらいの時に書かれたのでしょうか。
旧漢字や文語調の言い回しが難しく、字体から想像して読む楽しさを与えていただきました。
反語が含まれる箇所なんて、こちらが興奮してしまいます。

新川崎駅がまだ存在しない頃の、鹿島田駅付近からの車窓風景の描写が貴重です。
そして山上に立つと、多摩川まで望む事が出来たのでしょうか?

私がふと不安に駆られた突然の風は、武蔵野の風が吹き抜けたに過ぎないのかも。
次にまたここに登る機会があれば、もう少しの間山上に留まって、色々思いを巡らせてみよう。

 
そして、上述の「風土記稿」にある山上の”天守台”について、東秀さんの文でも以下のように触れられている

「兎も角、土人の口碑といふ一事が先づ以て光って居る。里伝の発端が、この道灌懸慮に在るとした。
或はさういふ計画であったかも知れぬ。今、天守台といはれる所に、八幡宮の小祠と記念の石碑が
建って居る。」



加瀬山山上に現在立地する了源寺、ここは妙法寺と呼ばれていた時期もあり、ここの当時の住職と道灌は
親しい間柄であったという。

《太田道灌の夢》という小見出しから、風土記の説を引きつつ、夢見ヶ崎という地名が伝わった経緯が記されている。

「・・・さて、道灌はしばしば此処に来ては、丘上に屯営したといふ事である。即ち、想ふに、戦場の
往き還りか、又は時として四辺の状態を探る為の往来か、或は単なる風光を探ってこの物外の交
りを暖める為か、必ずその何れかであったらう。
斯うして土地の相貌に親しみ、馴れ、眤んでは、勢ひ、軍略上の要害地としても充分に考へられた
ことは相違ない。やがて築城せんとして改めて地相を見直すに至ったとの里伝が生まれるやうに
なったのである。」


古墳時代から人々が住み続けてきた丘の良さを道灌も肌で感じ取っていたのでしょう。

ここから先の話は、「夢見ヶ崎」地名の由来として伝わっている部分が含まれているが、本書には
より詳細な評伝も記されている。

「ある夜の屯営の夢に、忽然として羽音を博つ(広げる)一羽の白鷲、陣営に風を起こすよと見る間に、
其所に措いてあつた道灌の兜をいきなり咬へて飛び去った。凄まじく飛び去るなと見送ると、ここから
九町ほどの距離にある駒岡山に、咬へし兜を放し置くと見て、夢は醒めた。

吉か凶か、瑞兆か凶兆か、道灌としては、まことに気にかかる夢である。思ひ迷うて此の夢のさまを
妙法寺の住職に物語り、且つ其の判断を聞いた。
 
言下に答へていふやう、夢は極めて凶である。此の地の築城思ひ止まり給へ。
東の方、大川のあなたに良き地相の所あれば、そこに落着し玉ふべしとある。」


懇意にしていた住職に夢の判断を仰いだ道灌、「大川のあなたに良き地相の所」=江戸方面への
築城がお勧めされたのですね。
未開の地であった江戸になぜ城を築こうとしたのか・・・という古来からの疑問に対しては諸説存在
しますが、その背景としてこのような逸話が伝わっていたことは初めて聞き及びました。

「・・・ここに恨みを呑んで築城を思ひ止まることとした。江戸城が出来上がったのは之から間もない
長禄元年彌生の頃であつた。

加瀬山の夢あつたればこそ、彼の雄渾なる江戸城に着手したものともいへる。

しかし、道灌は、心を悉く此の丘陵から離すことは出来なかった。それほど愛着が強かったのだ。
寛正六年には、八幡宮の祠を、此の頃の天守台に建立したと伝えられる。
天守台といふ名は、前にも述べたやうに、恐らく築城配置の縄張り当初に考えられた場所なので
あつたらう。加之、ここに和歌一首を詩吟せられたのであつた。


さまゞの 眺めも果てずよしや世の 夢見が崎の春のあけぼの

和歌の題に、夢見ヶ崎とあると伝えられるから、いはば、文明五年の彌生の頃にあつて、己れ夢
の不可思議を思って崎の名になしたものか、或は又、此の吟詠ある以前、既に夢見の話が著名
となつて、誰称ふるとなく、加瀬の丘陵を夢見ヶ崎といふやうになつたのを、道灌も亦ほほゑみ
うなずきしつつ、柔らかな春のあけぼのを詠んだものか、何れにしても、夢見ヶ崎の夢は、正しく
大なる覇業の根本を、底から覆がへしたものとなつた。
成らざりし昔の事から、夢見ヶ崎の名に表われる物語を以てその解説の妥当としたものか。
そこに星霜(年月)久しき里伝成長の妙があつて、白銀の如き滴歴を下して居るのである。」
 


東秀翁による夢見ヶ崎地名考、佳境から一気にクライマックスに突入した感じです。
最後の一文の後半あたりは私はよく解りません・・・

道灌が詠んだとされる歌はやがて了源寺の住職に与えられ、色紙一筆がとある家に宝として伝わっている
との事です。

登場する年号:長禄元年(1457)、寛正六年(1465)、文明五年(1473)だけでも16年間に渡り、道灌と当地との深い関わりが推測されます。それ以前に幾度となく道灌は夢見ヶ崎を訪れているとされており、各地を駆け回った太田道灌(1432~1486)の人生の於いても、この場所は思い入れの強い特別な地のひとつだったのでしょう。
(しかし年号が頻繁に変わる)

道灌が生きている間に夢見ヶ崎の地名が既に定着し、離れた場所にいても聞き及んでいたのでしょうか。
それとも時間の経過をみたのち、道灌の故事を引いて呼ぶようになったのか・・・

また、夢見ヶ崎には昔より「二十六夜会」というものが伝わっていたそうです。
道灌の死後、道灌を敬慕する土地の人々が年々二十六夜に月を鑑賞する集いであり、天守台の観月地で
昔語りなどに興じたというもの。

加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません。昼間でも不思議な風を感じたので到底夜になど近づく気がしないのですが・・・


結局「地名考」と言いつつ殆どが引用になってしまいました。。
この素晴らしい本を目の当たりにして、耽溺しています。



d0250051_12255386.jpg
持ち去られた道灌の兜が着地したという、駒岡。
ここもまた山の上(丘ってかいてあるけど)にあります。












d0250051_12272010.jpg

道灌さんの「灌」の字が金へんになってて面白い~。
史蹟の説明版には、江戸城を構成する支城の候補地を選定すべく、加瀬山を訪れたという
史実の記載になっています。









紫アイコン、上末吉小学校辺りが兜塚。
鷲は夢見ヶ崎からほぼ真南の方向に飛んでいき、鶴見川を渡った辺りで兜を落としたようです
(重さに耐えかねたのか)


*****************************

次回以降、夢見ヶ崎周辺の細かい散策、暗渠探しも綴っていきます。
あとは、道灌さんの通った道はここかな~とか。

最初に来た時は右も左もわからず、完全に異端者というか。この土地の香りが思うように把握出来ず。
二回目くらいからでしょうか。やっと「日吉に近いんだ・・・というよりここも日吉と呼ばれていたんだ」みたいな
基本的な地勢が見えてきて(普通の人には当然に見えても自分には何故かこの点が欠落していたのです)。

そうなってくると感じ取る事も見えてくるものも不思議と多くなっていきますね。

旧いものが集中的に点在していて、本当に興味の尽きない土地でした・・・!

最後に「夢見ヶ崎音頭」というのがあるそうなので、抜粋してご紹介させていただきます。

「〽ハア~ 春は桜の夢見ヶ崎よ(ソレ) 中略
太田道灌 日吉の里に 日本一と 折り紙付けて
お城を築く事 決めたとさ
・・・・・」


伝道灌さんの和歌もゆかしくて良いですが
こちらは盆踊りでしょうか。体を動かし移動しながら夢見ヶ崎の地名を口ずさみ踊れるのが
いいですね。
[PR]
# by onnbubatta | 2014-01-29 12:45 | 神奈川 | Comments(14)

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか

相変わらず順不同・内容も迷走していますが、本年も宜しくお願い致します。
いつもお読み下さり、ありがとうございます。


葛飾暗渠巡礼はまだまだ続きます。


新柴又近辺から。

この辺りは葛飾区鎌倉という地名なのですが、その由来として

○相模国鎌倉郡の人が開発者
○村の鎮守として鶴岡八幡宮を勧請
○北葛飾郡(埼玉県)鎌倉村の飛び地があった

等々、諸説が存在するようです。

話とエリアが飛びますが、葛飾区北部と接する三郷市にも鎌倉のつく飛び地があります。
この話二回目になります・・・

d0250051_14394244.jpg

まるで島のような形状。一部は大場川に掛かっている点でも興味深い。
この辺りは別の地名でも飛び地が散見されます。


元に戻ります。




葛飾の鎌倉辺りは境目がグニャグニャしていて道も内臓を想起させるんだ。
有機的で好きな場所です。




d0250051_14501685.jpg

北総線の高架下が公園になっており、そこにあったカラフルなブランコ。
腕力自慢のパイレーツ的風貌のアニキ(空洞多め)がちびっこを待っています。










d0250051_14543014.jpg

北総線の高架を外れて明るくなりました。
佐倉街道(さくらみち)に出ましたが、この辺り旧道の面影は特に感じられず。
(昔、さくらみちの事は花の桜だと思っていました・・・)

もう江戸川区との区界に近く、江戸川区側に入ると親水緑道を備えた道へ姿を変えていきます。

この辺りの区界線がまた鋸様で有機的な感じ。






葛飾区・江戸川区は掘割が縦横に行き交い、地点での正式な名称がよくわからないものも
多い中で、「帝都地形図」にはっきりと記載されていたのが

「伊豫田堀」。
何てお呼びしたら良いのだろう。いよたぼり?いよだぼり?

スウェーデンの「イエーテボリ」みたいな語感でもある。
愛媛とも関係あるのだろうか。
→北小岩周辺の開拓者に篠原伊豫氏という方がいらしゃいました。元は市川の里見氏の家臣で
「安西伊予守実元」と名乗っていた時期もあったとの事、里見氏が国府台の合戦に敗れたあと、
この地に逃げてきて耕作に従事し、「伊豫田」の新田を開発したそうです。追記
しかし「伊豫田」と呼ばれた地域はここより南西に少し離れた北小岩3丁目、京成江戸川駅周辺。
そこまで水を引いていたのか・・・?う~ん。

田が広がっていたのでしょうね。

文献を詳しく当たった訳では無いため、どのような系統かもよくわからないのですが、(小合溜からの小岩用水系統?)伊豫田堀行ってみます!
というか以前に何度か歩いた事はあったのですが、お名前付いてるのが判明し、俄然再訪したくなった次第
です。
(帝都地形図の古地図は誤記も散見されるけれど)


d0250051_15212054.jpg

帝都地形図で伊豫田堀と記載されているのは、明るい水色の方の線。
青い線は分流していたのかもしれません。










リブレ京成というスーパーを通り過ぎて、江戸川区に入ります。この佐倉道に沿って流れていた水路もありました。

鎌倉新田辺りは近くに江戸川の長流がありながら、明治大正期まで圦樋の施設が無かった為
遠く水元の小合溜から引いた水に頼っていたといいます。
末流の位置に当たる為に炎暑の時期には水が枯れ、また途中の村々からの取水によって
水が届かなかったりと、耕作には不便をきたしていたそうです。。

眼前に大河がありながら遠方から水を引いてくる・・・川崎の鶴見川近くでも聞いたことがあります。
近くの鶴見川が感潮域であり塩分が含まれるために距離のある多摩川からの二ヶ領用水系統用
水を使っていた地域の事を。

・・・閑話休題。


この界隈にしては割と広めの道。唐突感があるいつもの匂いがします。
何か必要以上に広い道路って・・・川跡のかほり。

d0250051_15305285.jpg

ここがもう伊予田堀です。(この表記もあり)
南へ歩いて行くと道幅が次第に細くなってすぼまり感。



























d0250051_15325542.jpg

この分かれ道を左へ行くと


















d0250051_1534189.jpg

暗渠があると黙示してくれます。






























d0250051_15355675.jpg

soon分岐が現れるので、帝都地形図の表記通りまずは左に歩いて行きます。
この地点からまた葛飾区に出戻り。忙しい。











d0250051_15504275.jpg


































d0250051_15532061.jpg

以前に来た時と大きく変わらない風景にしばし安心。





























d0250051_15541569.jpg

この先は突如として行き止まり。

そこからがまた江戸川区北小岩。
分岐地点に戻ることにします。























d0250051_15583730.jpg

戻ってきます。






























分岐点から、南方向への流れを追ってみます。

d0250051_1602485.jpg

艶めかしい屈曲を見せつけてくれますね。






























d0250051_1623866.jpg

あら、こちらの流れの方が趣度高いかな。

西早稲田の暗渠(いなほ製菓脇)が思い出されるなあ~。こういうこげ茶の木目のお宅が印象深くて。






















d0250051_164346.jpg

界隈の緑の豊かさに人々の営みを感じます。
















d0250051_1671447.jpg

二つの接した戸口路面にゴーグルみたいなマンホール。
















d0250051_1685456.jpg

神社の脇に出てきました。

「鎌倉八幡神社」




























d0250051_1695831.jpg

突当りが重厚な漆黒の蔵を擁する質屋さん。

ここで明瞭な暗渠痕は失われますが・・・

この先に私のお気に入りの橋跡(正確にいうと橋の名残。。。?)があるので
そこを目指します。


















d0250051_16144240.jpg

一旦柴又街道に出ます。

この道もあまり大きな変化は無く、古い商店もまだ見られます。

























d0250051_16172076.jpg

目印となるお寿司屋さん。
高貴な紫の暖簾が、橋跡への入口を告げてくれるのです。



























d0250051_16194078.jpg

候補者看板の足元に何かブツが見えますでしょうか・・・





























d0250051_16203215.jpg

「重兵衛橋」

これ、往時のものかどうかは定かではないのですが・・・
この形態のが周囲にあるわけでは無いので昔から気になっているのです。






江戸川葛飾は掘割天国なのにね。あ、小岩に一件こういう趣の小規模なのあるので最後にご紹介します。

教えてください、重兵衛さん!


d0250051_16223934.jpg

重兵衛橋の暗渠はこれまた先細りしながら東へ延びています。




























d0250051_16243426.jpg
重兵衛橋の後ろ姿。ゴミのプランターと支えあう日々に哀愁を覚えます。

ここの流れ、古地図で確認すると
お寿司屋さん過ぎて柴又街道を越え、小岩用水とクロスするまでの間、仙蔵橋・勘七橋と人名風の橋が架けられていたようです。



d0250051_11254019.jpg

赤が印象的な冷蔵庫。
廃墟様の中にある鮮やかな色味に自然と引き寄せられます






















青いアイコンが重兵衛橋の位置、
オレンジは仙蔵橋です(写真は無し)


地図を見ていると、(真上の地図緑アイコン付近)この辺り京成本線の線路沿いに
「まんだら公園」というのがありかねてから気になる存在だったのですが、江戸時代に近辺で1499年銘の
「南無法蓮華経」と刻んだ板碑が発掘されたことから、この板碑を「曼荼羅」と称して
この付近を「曼荼羅村」とも呼んでいたのだそうです。


葛飾区役所辺りからずーっと続く真っ直ぐな道、古代東海道(と推定される大道)に向かって歩いて行きます。
(隅田~市川の下総国府を結んでいたそうです。古い呼び名は府五十五号隅田市川線)

現代の地図では「超一級の幹線道路」には見えませんが、きちんと比較的綺麗に東西に繫がっています。
何度か地図で確認を試みるのですが、この道が「○○号線」というのがあまり表記されていない気がします。
勿論ちゃんと管轄があって、番号もあるのでしょうが、なんかいつもはぐらかされているのです。



d0250051_11394046.jpg

鎌倉1-15辺りの暗渠。出た先が古代の官道






























d0250051_11422387.jpg

幾度となく通過した道。
古代東海道・・・なんて初めて知りました

立石の「立石様」(行ってみたい)はおの古代東海道の道標では?という説があります。






















d0250051_11424663.jpg

古代東海道を挟んで、愛国学園お向かいの暗渠道。
ここに架かっていた橋の名前も「喜右衛門橋」。















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

橋跡写真のおまけです。南小岩の源四朗橋。これも人名橋


d0250051_10413481.jpg

橋跡の痕跡を示すものが見えますでしょうか?
電柱の根元付近です。















d0250051_1047865.jpg

水路があった当時のものかどうかはわかりませんが
表札を一回り大きくしたようなサイズ感と、「三丁目 源四朗」の名乗りが気に入っています。
漢字が二つ入っているところも。
[PR]
# by onnbubatta | 2014-01-21 11:50 | 葛飾区 | Comments(2)

新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)

何かいつも順番的にぐちゃぐちゃですみません。。


まだ暑さの残る初秋、幾度新小岩で降り立った事でしょう。

人生初の新小岩、色々ありましたが、
その日はあまり大きな収穫もなく足もフラフラでもう帰りたくなっていた矢先にたまたま遭遇したもの。


地図でも見ると現場は「新小岩操駅」と呼ばれる場所。
操駅、って何か聞き慣れない用語。現在は正しくは「新小岩信号場駅」らしいのですが
現地の看板には「新小岩操駅」と掲げられていました。

国鉄民営化に伴い、以前北口にあった操車場や工場は廃され、私学事業団のグランド等に。
現在は小さな操車場として貨車の入換作業や機関車の方向転換を行う機能を有しているとの事。


d0250051_10243058.jpg

突然現れた蓋暗渠。総武線の線路南側に沿って延びていました。




























d0250051_10372978.jpg

看板より西側(JR新小岩駅方面)には蓋無し。




























d0250051_10303125.jpg

中学校の向い辺りで
蓋暗渠はT字路を形成していました。














d0250051_10333111.jpg

T字路の縦棒部分は数メートル、蓋数枚で一般的な歩道に切り換わります。

何よこの変わり身の早さは。
























d0250051_10411450.jpg

ドッキング部分を反対側から。

















d0250051_1043685.jpg

葛飾区の四角いマンホールを乗せ、センターラインまで引かれています。




























d0250051_10451134.jpg

北側の操駅建物を過ぎると視界が開けて明るくなります。

奥に見える陸橋は小松橋。



























d0250051_10494177.jpg

側面からの鑑賞も欠かしません
















d0250051_1050877.jpg

振り返って眺めるとこのような感じです。





























d0250051_10505515.jpg

線路際の箇所で意志を見せるかのように屈曲します。




























d0250051_10525310.jpg

最後の屈曲箇所でガードレールの色と形状が変わります。






























d0250051_10543275.jpg

ここまで辿ってきた蓋暗渠、総武線の線路に突き当たって終焉を告げるのですが・・・
(丁度電車が来ました)

























d0250051_10563873.jpg

ということは、ここが橋梁になるのではと考え、近づいて痕跡を探すと・・・

右の方にプレートがあります。
探偵気分。









d0250051_10591980.jpg

「枝川橋りょう」

枝川という名称の川の橋梁・・・?
それとも何か水路幹線の支川のようなニュアンスで「枝川」と管理されているのかな?






d0250051_1175170.jpg

隙間から水が見えるか覗いてみましたが、隙間狭すぎ。
赤いペイントは何なんでしょうね。


























d0250051_119391.jpg

脇にもう一つ埋め込まれていたプレート、「基礎坑標」。

そのへん詳しくないので内容は理解できず。でも最下欄の「記事 摩擦」って気にかかります・・・











手持ちの和楽地屋さん地図(昭和30年後半~40年)にはこの水路が描かれており、線路を越えた箇所にも
水路が連続しているように見えました。


線路を越えた地点。南を向いて撮影しましたが、反対側の「橋りょう」のようなプレートも存在せず暗渠の痕跡等は薄い。

d0250051_11194410.jpg

















d0250051_11202134.jpg

線路北側の水路部分はこんな感じの緑道に整備されています。
私学事業団運動場隣。

雑にブレちゃったので伝わりにくいとは思います・・・





















d0250051_11224255.jpg

新小岩北口エリア暗渠については後日の報告をお待ち下さい。



























d0250051_14513489.jpg

小松橋陸橋下を華麗に通過する、「塩化ビニル」の貨車。














d0250051_14535014.jpg

留め置かれていた、「突放禁止」と書かれた台車のようなもの。
川崎貨物、とか神栖といった遠い地名が記入された紙を付けられていました。








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

水路が網の目のように展開する低地地帯ですから、ここのように線路をくぐっていた水路に架橋された橋梁
の痕跡は他にも幾つかあると思います。
あと一か所、総武線の線路に関して橋梁跡を確認したい場所があるので、いずれ訪れてみたいと考えています

(葛飾区内の新金貨物線では何か所かで見られます)

ここからなるべく線路に沿って東へ進んでいきます。
(公図上、この道筋も水路)

d0250051_152152.jpg

!!

何か堪らなく私の好きな感じのイラスト!














d0250051_1563361.jpg

手前がポケットパークのようなちょっとした空間。ベンチもあります。
足が痛かったけれど、興奮しすぎてベンチでの休息すら割愛。

金網越しに調査すると





d0250051_15112589.jpg

暗渠化されている「中井堀」の水面が顔を出しています。。感動の瞬間。

新中川の開削により分断され、上流からの通水が不可能となり暗渠化された中井堀。






以前の記事で少し触れた東井堀等とともに水元公園にある小合溜井から引かれた幹線水路であり、
現在は道路として利用されています。





d0250051_15132451.jpg

「帝都地形図」でこの場所についての言及があり
「黒く濁った水の流れを確認することで、往時の清らかな水を湛えた中井堀の姿を想像するほかない」






思ったより黒くは無かったですが、濁り淀んでるのは間違いなかったです。





d0250051_15202826.jpg

そして・・・水面ばかりを凝視し続けていましたが
上部を見やると

ここにも橋りょうのプレート?!
























d0250051_15212172.jpg

「中堀橋りょう」


「中井堀」表記ではないけれど、確かにここにも橋梁プレートありました!












もう興奮で息も絶え絶えな中、雑草の中に無我夢中で長い事立ち尽くしていた私の足に
ピリピリッ」とした非常に嫌な感触が走りました。

昨年チャドクガにやられた時の感触に近いものを感じたのです。。

一瞬顔面蒼白になりましたが、一度に蚊に数か所刺されただけでした。でも猛烈にかゆかった・・・

露出もしていないのにブサブサ咬まれてしまいました。ここに観測に行かれる方は留意されて下さい。




葛飾区新小岩と、江戸川区上一色の境界線にありました。
[PR]
# by onnbubatta | 2013-12-06 11:46 | 葛飾区 | Comments(0)

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道

葛飾に憑りつかれて徘徊したり地図を眺めたりしているさなか

「おお、これは・・・!」と目を見張った地帯あり。

明らかに川の蛇行を改修した痕跡。


越境して、おそらくはじめての三郷市入りとなりました。


暗渠というには規模が大きい。メガ暗渠かな?

やはり境界モノかな~暗渠界のlotus62さんが「境界ハンター」として既にご活躍♪、私も猟友会の端くれとして綴ってみたいと思います。宜しくお願いいたします。



三郷市と八潮市に跨る市境線。

古代から中世にかけて、下総~武蔵の国境を為していたそうです。




「金町の北にある」くらいの情報しか持ち合わせず、北口からバスが発着するものと思い込んで
いたら、バス停にはそれらしき行先が書かれておらず。。

バスの列に並ぶのか並ばないのかどっちつかずの体制でモジモジ混乱していたら
背後のご婦人から

「並んでるんですかっ013.gif」とプレッシャー。。

ん~でも一番前の座席を確保できそうだったので、乗っちゃいました。
(かなり手前の葛飾西水元辺りで降ろされましたが、発見もあったので良しとします~)


d0250051_11161022.jpg

市境線の東側辺りに自然堤防が発達しているのが判ります。
戸ヶ崎の地名はそこ辺りから起こったのかな。


楽しみ~





河道跡区画は梯子状になっているのです。




市境が大場川と接する地点は八潮南公園になっています。
八潮市側には近接して日本煉瓦潮止工場がかつてありました。
(潮止、はこのあたりまで感潮域であることから付けられた地名)
いつまであったのか正確に確認できていないのですが、昭和60年くらいの地図ではまだ残っていました。地図の下、屈曲している「大瀬」周辺です。
(元は江戸川沿いにあった金町製瓦が設けた工場。金町製瓦はその後日本煉瓦に吸収)

中川沿いは煉瓦や瓦の製造が盛んだった時期があるようですね。

日本煉瓦といえば深谷が有名ですが2006年に清算し、最終的な本社所在地は板橋区大山であった
とwikiで意外な発見が。

さあ歩き始めます。


d0250051_11242236.jpg

南を向くと、水路が開渠で細々と抑制された姿を見せてくれます。



























d0250051_11271294.jpg


































北側を向くと

d0250051_1129981.jpg

青い水門とポンプ小屋。
赤・黄の縁石?。

三色揃うと公園ぽい空気が醸成されます。

実際ここの一角も公園でした。





















水門の裏側に回ります
d0250051_11314185.jpg

まだ水を湛えていますが、わずか数メートルで突如細流の水面はなくなり、
何事も無かったかのように整然とした住宅地が現れるのでした。




















意外な事に、当該市境ラインの真上は住宅街の静かな道路と
家々の境目とを繰り返し成して行き、

凹んでいるとか水の痕跡を想起させる路面は見つけられず。
(今回境界線の東側を少し歩いたに過ぎませぬが)

埋まった大河は見事に均され、周囲の住宅地に変貌しているのでした。


実に静かで落ち着いた戸建中心の街並みが佇んでいるので
「ここが当に境目!」的な写真は撮りませんでした。





しかしながら、すぐ脇に蓋暗渠道が市境界と平行するような形で連坦としているではありませんか。
大河の土手下で水を受ける側溝の如く。

こちらからのお誘いを受けたので、歩いてみることにしました

d0250051_11482463.jpg

幾何学的に装飾された車止めにこんにちは。


























d0250051_11495722.jpg

横から愉快な蓋も仲間入り&参戦してきます。






























d0250051_1151136.jpg

ドッキングの現場


















d0250051_1154754.jpg

歩き進めると、「片側に幅寄せタイプ」に変化したり。





























d0250051_1155484.jpg

蓋自体の形状変化も楽しむことが出来ます。

車止めの片方は蓋を貫通していて、
柵は跨ぐタイプになっています。
























d0250051_115904.jpg

対峙する






























d0250051_1201583.jpg

道路と交差する地点の脇、お店が並ぶ一角に建っていた
おそらく水神宮。

表面の、上半分くらいは欠損してしまっていますし
サイドも斑に剥落しかけているのかな。

水神宮。水元ではいくつも見かけました。
















d0250051_125355.jpg

ここは屈曲が出てきて魅惑の地点です。

柵は片足突っ込みタイプ。



























d0250051_15245616.jpg

乱入者その2
































d0250051_1527711.jpg

ここで、広めの車道と交差します。
横断した先にも蓋暗渠が連続しています。



























d0250051_15294026.jpg


































d0250051_153006.jpg

































この先も気になる所ですが、蓋暗渠追跡はここまで。
境界線上に存在した水面は僅かなれど、この「メガ側溝」歩きも実に面白かった!

車道(バス通り)を右方向へ進み、また市境ラインジャストを目指します。


d0250051_15381926.jpg

また路傍に時を物語るものが。
赤いコーン衆の三名を従えて、ガードされているのかもしれません。












d0250051_15414443.jpg

上部には欠けた痕跡と、円型に文字(もんじ)?のようなものが囲まれています。
寛政7年の銘もはっきり。


























d0250051_1549248.jpg

通りに面して、雰囲気のあるたばこ屋さん兼洋品店がありました。
そこの角にあったレトロな丸いポスト。

























d0250051_15501640.jpg

こちらの看板娘さんもランドマーク・・・?
伏し目がちでアンニュイですが

























d0250051_15532884.jpg

異次元にワープ中の美女

何か目を見開いちゃったみたいに見える~



























d0250051_15572086.jpg

異次元から戻ってきた美女

こういうお店があるのは、ここが旧くから人が行き交っていた通りだからでしょうか。

























d0250051_1603370.jpg

そして京成バスの戸ヶ崎操車場。
操車場といってもこじんまりとしたスペースでした。

河道跡が、バス通りと交わる地点の脇に立地します。





lotus62さんの提唱?する「川跡=バスターミナルとしての転用」説の条件とも符合しております。



大河の川床を起着点として、今日も人々の移動を担う。



帰りはここから無事にバスに乗り、川床から揺られる感慨に浸りつつ金町まで辿り着くことが出来ました。
(金町駅南口の立派なロータリーに着きました)




ここから北、中川との接点までは未踏。また訪れたいと思っています。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

d0250051_16294687.jpg

葛飾区側・大場川の土手手前で遭遇した水神宮














d0250051_1630597.jpg

笠を被って斜面につくねんと。































d0250051_16313239.jpg

たまたまここの近くで鳥居が見えたのですが、地図には神社の表記がなく・・・

ここについてはまだ調べ中。普通の民家かも?






















d0250051_1634458.jpg

水元の閘門橋へと至る通りの土手下に見えた、これもおそらく水神

























d0250051_16384667.jpg

流れのある川というより、溜のように穏やかな大場川














d0250051_16394768.jpg

水元公園内に残る、浅間神社跡の高まり。















d0250051_16523159.jpg

地形図上でも盛りがあるように見えます
(社殿は現在無し。昭和初期の地図には参道と社殿のような表記あり)







d0250051_164225.jpg

煉瓦造り(金町製瓦製)の閘門橋。元の名を「二郷半領猿又閘門」。
都区内では唯一の煉瓦造りのアーチ橋。

古利根川(中川の埼玉県側の呼称)・大場川の水害を防ぐ目的で明治時代に設けられました。

今回歩いた旧河道はこの橋のすぐそばで合流していた事もあり、古くからの洪水多発地帯。

葛飾区側の「猿又」辺りには出水のさなか、自ら人柱となった老人の物語が伝わっているそうです。
(不思議とその後に水の勢いが収まったとか・・・)




d0250051_16424321.jpg

落し物を拾って下さる駅員さんの姿にも似ています。













d0250051_178467.jpg

三郷市側に入り、二郷半領用水にまたもや煉瓦造の橋が。

ここの煉瓦も金町製瓦と関係あるのかな?
(エリア違いますが、先日十条で見かけた陸軍施設遺構の煉瓦塀も金町煉瓦のものであるとの
事でした)












d0250051_179193.jpg

肥船が往来していたんですね。。

















またこの辺りは、「鎌倉」という飛び地が島状に残されていて興味深いです。
(戸ヶ崎、の飛び地も散りばめられています。整理関係でそうなったのでしょうか・・・)

大場川を越えて葛飾区内にも鎌倉地名があり、「さいたまの鎌倉村に由来している説」を聞いてこの辺りを指すのかな?と興味津々。

葛飾の鎌倉界隈も歩いていますので後日暗渠散策レポート致します。

d0250051_17131624.jpg

鎌倉飛び地、一部は大場川にかかっています。

大場川に向かって、住宅地の中に並行して縦に伸びる道は二条通りとか八条通りなどと
条里制のような名づけがされていました。


最後に
d0250051_1715356.jpg

東武ガスのマンホール
[PR]
# by onnbubatta | 2013-11-26 12:04 | Comments(8)

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪

久しぶりにカテゴリー「神奈川」をチョイスする時が到来しました。

(葛飾の暗渠を巡礼しているさなかですが一回神奈川を挟みます)

タモリ俱楽部で紹介されていた「平面クロスの線路跡」を見てみたい欲望にかられ
「横須賀軍港めぐり」クルーズと合わせて遠征してきた次第です。

私の軍港めぐりの主目的は「新井堀割水路を航行する」。

元は三浦半島と陸続きでそこから突き出た「箱崎半島」、ここを水運の便に供するために
掘削し切り離され、今では吾妻島と呼ばれた島がそこにあります。



d0250051_1234799.jpg

激しすぎ、険しすぎ・・・

行きの京急の車窓からもう萌え死寸前、酸欠状態でした











次の用事までの間をりようして降りたので、田浦には30分くらいの滞在
(あまり電車も来ない)




d0250051_1263834.jpg

JR田浦駅下り側にあるトンネル3兄弟のうちの二つ。
草ぼうぼうなのが、これから見に行く線路へと続いているようです。



階段を昇り跨線橋を渡り再び階段を降りていきます。







d0250051_12211213.jpg


唯一見かけたお店。「夜城」
駅からすぐの左手崖直下、岬の聖なる力が宿ったお店かもしれません

魅力的なお店です・・・
(上の地図黄色のピンの左辺り)

















駅を出て車道を右に進むと、相模運輸倉庫という会社の倉庫群に目を奪われます。


d0250051_12254317.jpg

秋晴れの青空に鋭角際立つ、のこぎり屋根。
ネットの記述に拠れば、軍の兵器修理庫であったとのこと。

しかし・・・金網で囲まれ「国有地」の関東財務局看板・・・
公売の物件なのでしょうか・・?
(詳細に看板をチェックするのを失念しました。また財務局の入札予定表にも見当たらず)





d0250051_12304012.jpg

のこぎり屋根の隣の倉庫。

造りがそれぞれ違って、飽く事無し。














d0250051_9542322.jpg

比与宇隧道方面に向かい東へ歩いていきます。

そして表れた 軌道跡。
白い建物は地図上で合同庁舎とされています。
庁舎内にはゆるキャラっぽい人形がありました。

庁舎よりにもう一組の軌道跡があります。
















d0250051_12362336.jpg

来た方向に向けて戻り撮影。(西向いてます)

背後は上述の二つの倉庫。


分岐していますが、どちらもその先がよく分かりませんでした。






この西向きアングルのまま少し後ずさり状態になると、
その軌道跡状態に驚きました

d0250051_1074483.jpg

まさに線路が交わる地点が
水没・・・?した状態。

ストリートビューを見る限り、草むしてはいるものの
水は溜まっていないように見えましたが・・・時限的な風景なのでしょうか。

何だか水田の一角にも見えるし、何とも不思議な眺めです。















d0250051_10111516.jpg

この区間だけの、湿地然とした水景。

太い釘も見えています。






















最後に載せた地図の、ピンクの印の地点。


d0250051_1018259.jpg

比与宇隧道方面に進んでいきます。
































d0250051_10202672.jpg

再び振り返る。

草むした箇所、のっぺりレール跡だけの箇所・・・と次々と状態が変わっていくのも面白い。

しかし現地はストリートビューや、他の方のブログ写真とは違う箇所があちこちに散見され
段々と痕跡は消されているように感じます。

この界隈で起きている変化を感じ取らずにはいられません・・・何だかざわざわ。










d0250051_10274538.jpg

この後、一旦川でレール跡が遮られます。

川の手前の地点はレールの間から草がたくましく線状に生えていて
独特の光景を見ることが出来ました。

草たちよ、鉄路に挟まれながら何を思う。

「もう俺たちレールを敷かれた人生、はみ出しちゃわないか?」















吾妻川という川を渡ります。

普段なら水路の方に反応するのに、この日はこれを辿ろうという気も起きない程
レール跡に没頭しておりました。


d0250051_10255214.jpg

振り返ったアングル。
真新しい綺麗な橋だったので最近架け替えられた模様です。
SVでもそんな感じの普請中画像でした。


しかし・・・線路が川を渡るガーター橋の土台のような工作物?が見える!








地図の黄色い印地点







d0250051_1040718.jpg

これ絶対そうじゃないかなあ!?
キャー。





























d0250051_1041523.jpg

残念ながら、渡った側(比与宇隧道に近い側)には痕跡はあるものの
上の写真程の明白さは無い。

(お隣の合流口が寄り添ってるのが 何か可愛いです。)
(橋のあからさまな痕跡なくてゴメン・・・でもアタシも並んでるよ)

川の水深は浅く、水は穏やかに透き通ってゆらゆら。
河口に近い小河川の雰囲気が漂います。






(何だか沖縄の川を思い出します・・・吾妻川の事は詳しく調べていませんが、
山の水を集めて短い距離を海まで流れるような感じ~平地が少ないから)




d0250051_10454110.jpg

その先は、路面が砂利敷になり、レール跡もあったり無かったり。





























d0250051_10483732.jpg

この辺りは砂利より土が勝った状態。

先に停まっている軽自動車がレールのちょうど上くらいに位置しているのが
面白かったです
(意識しているのかな・・・?)





















d0250051_10535522.jpg

いよいよ平面交差地点が見えてきました。































d0250051_1058596.jpg

二か所ある平面交差部のうち、西側の交差部。






























d0250051_1104383.jpg

港の方向に向かい北へ続いて延びているようです。




























d0250051_1141295.jpg

道路を横断して山側(駅へ向かって延びる線路)は草がぼうぼうで様子を判別しづらかったです。
(草の根元にはレールが確かに見えますが)


























d0250051_117280.jpg

隣接するもう一組の平面交差跡。

こちらの方がレールの露出?が明瞭です。


























d0250051_1191898.jpg

先程の平面交差跡と同様に、港の方へ続いていきます
(金網の内側、草が生い茂っている箇所)

港の方に線路が続き、また別の線路もあるようですがここから港方向へは確認していません。

倉庫を囲むグリーンのフェンスはSVでは見られないもの。













d0250051_11142835.jpg

道路を渡って、駅方向に向かう線路跡。
曙機械という会社の脇。


























地図の黄緑印の地点。

d0250051_11165987.jpg

巨大化したサボテンと、杭の残骸のようなものがありました。





























d0250051_11175690.jpg

































d0250051_11182835.jpg

今回見た中では、水没レールの地点と同じくらいレール痕跡が明瞭だった地点です。
(レールの脇の木の部分~正式名称解らず~も残っていますし)
























d0250051_11202053.jpg

道路を横断していた地点。倉庫側を臨んで。

この線路跡を訪れた方のブログ写真で多く目にする象徴的な踏切機が
ここに在ったはずなのですが・・・






車道脇の歩道部分も境目の舗装が白くきれいに見えますし
道路整備と一緒に消えた可能性も・・・


このアングルの倉庫、威圧的でドイツ権威主義的な(何だよそれ)立ち姿・・・

d0250051_1157251.jpg



















d0250051_1213019.jpg

私が辿ったのはこの辺り、相模運輸倉庫の印象的なサイロと倉庫がある地点まで。

写真奥に迫る山を貫くのが比与宇トンネルです。

ここの地点、SVの画像では道路を華麗に斜め横断する分岐線跡が確認できるのですが・・・

現地では気づきませんでした。写真にも写っていない様子ですし、既に撤去?









d0250051_1245899.jpg

レールに挟まれた箇所の痕跡が化石化していて、もはや遺跡のような様相。



























d0250051_126979.jpg

相模運輸倉庫のサイロと倉庫。地図水色の印地点。

ここも、以前には見られなかったフェンスに現状取り囲まれています。

ネットで情報を集めると、前述の「斜め横断する分岐線」がこの倉庫内に延びている貴重な写真や
記述を拝見することが出来ました。











そこで合点がいった事は、

◎その当該分岐線や上で少し触れた踏切跡等々、今年の始め辺りに撤去されていったとの事。

◎戦前の倉庫群が経緯は不明ですが、やはり幾つか売りに出されていること・・・・




奇跡的に残されている線路跡や倉庫群も迫りくる変貌の時を迎えているのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

d0250051_9404671.jpg

パックマンに登場しそうな消火栓






























d0250051_941477.jpg

宇宙人的なキャラクターを冠する消火栓マンホール
















d0250051_946659.jpg

元は陸続きの半島だった場所を開削した、新井掘割水路。

半島の中でもかなり険しい地点を開削したのでは・・・
今では何事も無かったかのような表情で両岸が対峙しているのが面白い。






d0250051_9471457.jpg

小籠包みたいなのが付着しているタイプの擁壁

















d0250051_9494291.jpg

立入禁止の吾妻島。黄色いトンネルが口を開けていました。














d0250051_9522158.jpg

軍港クルーズチケット売り場内の天井にあるのは
海軍将校クラブ時代のシャンデリア。














d0250051_9533465.jpg

「JR横須賀駅」。
名前に比してとても静かで落ち着いたレトロな駅舎。

入るとホールのような造りになっていて、階段がなくスーッとホームが広がります。









d0250051_10135428.jpg

ホームに入って右手側の線路は車止めがあるけれどどういう使われ方をしているのだろう・・・

上下線とも左の番線から発着していたように記憶しているのですが。



















d0250051_10145154.jpg


線路の行き止まり地点。
何か詰まった感じや達成感もあって、その時間的雰囲気が何とも言えません。

線路間ににょっきりと、赤い消火栓







田浦駅も横須賀駅も、梁や屋根裏が水色に彩色されているのが印象的でした。

レトロで、上品かつ明るく健康的な海のイメージ。


d0250051_10425117.jpg

おそらく、これ以上に多様に分岐し物資を運搬していた事と思います。
今回目視で確認した以外にどれだけどのような状態で残っているのか、興味は尽きません。


↑比与宇トンネルの所、何だかモヤモヤしています・・?


[PR]
# by onnbubatta | 2013-11-18 11:56 | 神奈川 | Comments(2)

京成高砂北口周辺を暗渠巡礼 極太暗渠on猫ちゃ

前回の喫茶アイドルと、いってみヨーカドーの間の道を北上し、踏切を横断します。


d0250051_1065432.jpg
京成線高砂検車区・・・熱いよね
スカイライナー、ユーロスターみたいで凄く垢抜けてる!
私は青赤ラインのが印象深いけど
これも仮面っぽくて洗練されているなあと感じます。











d0250051_10102953.jpg渡ったそばから暗渠のかほりを漂わせてきます。
緑のポールと、奥に続く車止めが・・・


京成高砂周辺は10年以上前に来ているけれど
北口のこのあたり(写真には微妙に写っていない左側の辺り)、エビス通り商店街沿いの
連なった飲み屋さんは本当に変わらなくて
思わず声を上げてしまいました。
(電車からも見える「めーとる」という飲み屋さんなど)


















d0250051_10164541.jpgクリーニング屋さん、新聞屋さんが並ぶ細道暗渠。
センター凹みタイプで、車止めの土台は頑強な造り



























d0250051_1019781.jpg
車止め土台にちょっと穴が開いているのが良し


シンメトリーな図柄も良し。ごっつんこ。

























d0250051_10231567.jpg
階上から洗濯機の排水ホースが階段沿いに降りてきて
排水口へ。

高低差に富んだ排水だな~























右折し、検車区沿って東方向に歩いていきます。


d0250051_10255966.jpg
こんな蓋側溝も。
鑑賞しようとしてしゃがんだ途端、足をくじきました。

たんぽぽは強いね。























金町線の線路をも越えていきます。


d0250051_10305059.jpg
ここも水路跡。
前回の南口の記事で「小出五橋」があった水路跡から連続しています。
奥は金町線。
古い地図には、左奥のマンション脇に「第二筋違橋排水場」の表記がありました。
(後程改めてご紹介します)





いろいろはみ出しています。














結構な距離をまっすぐ車両区沿いに歩いていったら

d0250051_10371988.jpg
大規模な蓋暗渠に遭遇しました。
以前、京成金町線の車窓から圧巻の光景が目に飛び込んできて
強烈な印象を残していた場所だと思います。












d0250051_104633.jpg

一猫ちゃ発見。

このあと、同じ色柄のがもう一匹いたので同族かな・・・

気持ち良さそうにお寛ぎの所、お邪魔します!











d0250051_10431181.jpg
とにかくここのコンクリート蓋は幅広くて、なんかアメリカのような大陸的おおらかささえ覚えます。

包容力抜群。
「暗渠」と言えないような堂々たる姿。普段見慣れている、暗くてジメジメ、蚊が舞い乱れる先の見通せない世界とはまるで別格です。


猫ちゃも悠然とした姿。

奥が金町線の線路。
右が京成ドライビングスクール。















d0250051_10485763.jpg
にゃー















d0250051_10505120.jpg
くっついてくるタイプの猫ちゃだったので
こんな感じになりました


























↑↑可愛ゆすぎます

北西に戻る感じで歩いていくと、金町線の線路で行き止まりです。

地図で確認すると、水元小合溜から引いた用水を新宿辺りから分流する小岩用水の用水路跡。

前述の京成ドライビングスクールを挟んで一本北側の道(旧佐倉街道:現さくらみち)にも用水が流れていて
そちら側は植栽がしてあったり、江戸川近くにくると親水歩道として整備されているのですが
小岩用水跡がこの区間蓋暗渠の状態で残っているのはどういう訳なのでしょうか。

d0250051_1144451.jpg
高砂5-53辺りのトタン塀が連続する風景が好きです。
写真右側辺り。


























d0250051_116236.jpg
後ろ髪を引かれつつ「じゃ、もう行くからね」と猫ちゃに挨拶。

聞き分けの良い子だったのか
彼のテリトリーがこの辺り迄だったのか解りかねますが・・・























d0250051_1195422.jpg
空ヒロシ

緑道にもなっていない
この不思議な連続空間。

ベビーカーの親子連れさんがゆったりと歩いていました。























d0250051_11105417.jpg
橋跡かい?

縁石の置かれ方が自由ではあるが。
ガードレールが積丹ですね。













d0250051_11173889.jpg
葛飾区鎌倉3丁目に入り
石柱群が現れました。

奥の高架は高額鉄道で知られる
北総鉄道です。

新柴又駅のビスキュイのお菓子、美味しいから
買いに行きたいなあ~~







d0250051_1119029.jpg
「桜二橋」
いつからなのか?
どうにも傾いているというか
集団で反っているというか

ラジオ体操中かな?










d0250051_11241582.jpg
スケールの大きい蓋暗渠の連続はここで突然終焉を告げます。
(北総線の高架を越えると、鎌倉かなえ通りとして歩道整備された姿になります)
























次回はここの地点から、葛飾区鎌倉を歩きますが
その前に少し補足です。




小岩用水跡を、先程の金町線で行き止まりになった地点から線路を渡った場所。
d0250051_11304427.jpg
高砂5-50辺り。




























d0250051_11312161.jpg
同じ番地で、第二筋違橋排水場跡。
ちょっとした空間

ちなみに、目黒区の鷹番辺りの品川用水にも「筋違橋」有り。

その話、ちょっと筋違い橋よ!」なんて会話、誰かとしてみたい~・・・





















金町線より北側の小岩用水跡。

d0250051_11334519.jpg





























d0250051_11341632.jpg
柴又一丁目と高砂8丁目の間の信号のある交差点















d0250051_11371039.jpg
「やつけはし」

近くに矢付公園というのがあるので、字は矢付でしょうか。
市川の国府台の合戦時の矢がここまで飛来したという伝承あり、とネット上の記述を
目にしました。









(手持ちの古地図だと藤元橋、とあるのですが誤記かなあ・・・この辺り何筋も用水が行き交っていた様子なので、ちょっと脇にずれた方の橋の名前かも)




ここで西に折れて、住吉商店街を歩いていくと
d0250051_11423021.jpgお稲荷さん。


















d0250051_11431719.jpg
目の覚めるような配色の手水。
不思議な心持になりました。

























さて西に向かい
どこを目指しているでしょうか?


d0250051_1144566.jpg
なんだなんだ

凄く土木のかほりが漂うぞ




























~高砂6丁目。中川と、新金貨物線の間にある
怪無池と青竜神社にやってきました。

d0250051_11465090.jpg
10年以上経っています、前回来訪時より。

中川の水が取り残された感じなのかな。

写真中央に突き刺さっているのはスカイツリー。










d0250051_11473947.jpg
そうは言っても
釣り人ありけり。
















d0250051_11523521.jpg池の端(参道入り口近く)には土管?がちらと見えました。

上下之割用水が東用水/西用水、に分流する地点はここから至近距離にあります。












d0250051_1223261.jpg



















[PR]
# by onnbubatta | 2013-10-31 12:03 | 葛飾区 | Comments(4)

京成高砂で暗渠巡礼(南口)~取り残された蓋暗渠にも遭遇

葛飾区の京成高砂駅周辺の暗渠巡礼に行って来ました。

高砂、という地名は瑞祥地名=縁起の良い地名として葛飾区が発祥した際に新たに町名として登場した地名で、古くは曲金(まがりかね)と呼ばれていたのだそうです。



まずは・・・ここも暗渠上ではあるのですが、見覚えのある字体

d0250051_11364289.jpg
あまちゃんに出てくる喫茶店(ドラマでは原宿の設定でしたっけ・・・?)アイドル と
ロゴがそっくりです。

しかもこちらは電話番号が古いし、こちらがモチーフになっているのかなあ、なんて。
ドラマでは青地に白?とかだった記憶がありますがこちらは落ち着いたグリーン。













ここはちょっと置いておいて、


駅を出るとすぐ目に飛び込んでくる住居表示地図。

d0250051_11424013.jpg

東用水の表記が確認できたり、
左上の中川蛇行跡の運動場(緑で塗りつぶしてある半円状の地帯)などにも見入ってしまいます。










葛飾区は水路線の残ったこのような表示板が各所で見られます。
(残念ながらこの地図通りの水面が残っている場所は修景用水などを除いては少ない感想ですが)

そして、北の方角が真上の表示ではない所が多くて、体をくねらせながら凝視していまいます。

いつの頃からか、進行方向に合わせて地図を動かす事が多くなった気がします


駅を出て割りとすぐに遭遇するのがこの暗渠。
駅ホームからも見る事が出来ます。

d0250051_11552140.jpg

天祖神社の近く。































d0250051_11573396.jpg

何かはみ出しています。。
廃屋のような物件もありました。

水路跡より、民家側の方が低くなっているように見えますね
























d0250051_11582113.jpg

このトタンの向こうが始点なのかもしれませんが
民家の敷地内となっています。


























d0250051_11595317.jpg

こちらが近づいても動じる気配無し、のふて寝ちゃんがいました。
こういうヒゲ可愛いなあ・・・

お手々も白い毛だから靴下猫かもしれません(大好き)






葛飾区は猫が多かったです。
優しい人が多くて住み易いのかな





d0250051_1282212.jpg

一旦、舗装道路になります。
高砂2丁目15辺り。





























突き当たり、角地の物置上に
巨大な南部鉄器みたいな物体があります

d0250051_12114266.jpg


















一方通行の道を渡ると、また暗渠の風が吹く道として続いていきます。

d0250051_12132026.jpg

写真奥の角地が巨大なヤカンがある地点。

消火器本体とその格納庫が打ち捨てられていました

舗装部もザラザラした質感です。



















d0250051_12191799.jpg

暗渠道から一本細い支線を出た箇所にあるお地蔵様














d0250051_1221286.jpg

出口は東用水(現在は道路)に突き当たります。
少々東用水に向かって上り坂に傾斜している様子がわかります。























これまでの暗渠道の延長上のように見える道があるので、東用水を越え、更にお隣の西井堀にかかる高砂小橋の袂の階段を降ります。



先程の暗渠道が用水を二本越えてここに連絡しているのかは定かではないのですが。

d0250051_12264788.jpg

遠くスカイツリーを望み、
行き止まりにある新金貨物線の築堤まで行くと















水音が聞こえてくるのですね。
草が生い茂っていて見えにくいですが、水が確かに見えました。
幻覚じゃありません。

あ~。チェーンソーで草を伐採してほしいです・・・冬の方が良いのかしらん



貨物線の「富士見橋」から見ると水路が渡っている事を示すような構築物も。

d0250051_1231214.jpg

葛飾の新宿でも何点か遭遇しましたが
新金線を渡る水路は今でも確認できる箇所が何箇所かあるのですね。












富士見橋を渡って、中川沿いから眺めます

d0250051_12395838.jpg

水色の金網で囲われた部分が開渠なんじゃないかな・・・・見たいなあ。

新金線と中川土手の間の細長い土地は耕作地としての用途を見せておりました





















d0250051_1242693.jpg

波打っている錆びた鉄板(鉄橋の一部?)が微かに見えました。

















耕道第二踏切という踏切を渡って、西井堀に戻ってきました

d0250051_12472466.jpg

西井堀あとは歩道が植栽で整備された大きな道路になっています。
前述の東用水(東井堀とも)とともに、水元の小合溜より導かれた幹線用水でした。

このあたりは西井堀と東用水の太い用水跡の距離が接近していて、すごくどきどきします。




この先、南へ行くと「朝妻」橋という橋が過去にはあり、
冒頭の「高砂」とともに、明治の地租改正期に謡曲から採用した小字名があったのだそうです。





過去の地図など眺めていると、名字がそのまま橋名になっていて面白いです。
(下の名前が付けられた物の方が多いかな?長次郎とか長四郎とか)



宗教団体の建物が東用水沿いにあり、そのお向かいに公園がありました。

d0250051_1256401.jpg

亀の親子。

















このあたりから一本入っていった先に遭遇したのは・・・・

d0250051_12584058.jpg

これコンクリート蓋暗渠でしょうか。

過去の地図で確認すると、この場所にはお風呂屋さんがあったようです。
























d0250051_1314290.jpg

奥は行き止まりで民家のガレージとなっています。
(回り込んで確認しましたが、連続性はありませんでした)

行き止まりの手前になると、両側を耕作地で挟まれる形状となります。



















d0250051_1343240.jpg
































d0250051_1353959.jpg


































d0250051_1362151.jpg

折角ですから、側面も見学したいと思います。


















過去の地図を眺めますと、ここから1区画先に
「ゆやまえはし」という表記がありました。

昔あった銭湯の事を指しているのでしょうか。

その水路と連絡する流れの痕跡だったのかもしれません。

d0250051_1394314.jpg

ゆやまえはし 辺り。

ここの町丁界も水路だったと思われます。












というか水路が縦横に流れていたのでしょう。

駅に向かって再び歩いていきます。

d0250051_13195432.jpg

日東あられは既に廃業していたと思います・・・




























d0250051_1321668.jpg

ここの前の道も水路。
北へ進むと、京成線の車庫を越えて、金町線も越えた地点に
過去には排水場もあったようです。
(またの回に。)

高砂4-4辺り。ここの建物の前だけ道路の幅が違います。


(昔の地図では橋の名前だけあり、小出五橋 と読めます)




d0250051_13231477.jpg

上書きされているらしく、何て書いてあるのかよくわかりません

スポーツ用品の超一流ブランド四文字は何だろう・・・アデダス?アキレス・・・?









ここを曲がると、冒頭の「純喫茶 アイドル」に出てきます。

d0250051_13292680.jpg

「アイドル」前を流れる水路は次回ご紹介します。





























高砂小橋のある南北に広い道路が西井堀

その東隣の、同じく南北に広い通りが東用水
[PR]
# by onnbubatta | 2013-10-07 13:40 | 葛飾区 | Comments(7)

金町の新宿(にいじゅく)散策(陸前浜街道・用水路跡・橋跡・引込線築堤)

冒頭は、中川に架かる中川橋至近。
ここから金町方面を撮った一枚ですが、記憶にある風景とあまりにも見違える光景だったので
しばし呆然としました。

d0250051_15312279.jpg




















三菱製紙の跡が理科大ほかマンション等に、
京成金町の駅前に、このあたりでは群を抜く高さの目新しいタワーがそびえていました。

東京東部方面に一度だけ住んでた事があって、金町のJoshinでエアコンを買った記憶が。
その頃はまだアーケードがあったような。

昔の地図で金町とか新小岩の駅前に「丸興」というデパートの印があって気になっていたんですが
その「丸興百貨店」の建物に入っていたのが当時のjoshinだったようです。その頃はそんな事実も知らず。

その後再開発に伴い閉店し、写真右の、このあたりでは見かけないようなスタイリッシュなタワーに
変貌したと言う事です。

あとは金町と言えば・・・電車から見える「イトーヨーカドー屋上の教習所」とか
「寝過ごしたら金町でびびったよ」とか

の記憶かなあ・・・

三菱製紙の引込み線とかそこの大きな用水池とかは全然記憶に無いのです。







中川橋は千住からの「陸前浜街道」(水戸佐倉道とも)の「中川の渡し」があった地点にあります。
しかも古隅田川跡からも近い。

d0250051_15393226.jpg

本日は旅人気分で。

葛飾区新宿(にいじゅく)方面を眺める。
旧街道沿いらしさを伝えるように、寺院の多い立地です。

川魚を提供する旅籠があり、当時としては珍しく二階に便所を設けた造りの宿も
在ったとの事です。




d0250051_15382420.jpg

新宿(にいじゅく)側の橋のたもとにある国旗掲揚場の跡。
同じ場所に、由緒ある大樹の切り株が残されて保存されていました。

以前は引き潮の際に渡しの遺構と推測される石畳を見る事が出来たそうです。






















d0250051_1542740.jpg

橋を渡って、90度南に折れます。
この展開が楽しい。

先の地図で「矢作クリニック」とある方向へ進んでいきます。

賑わいは無いけれどとても静かで落ち着いている町並み。

道の両サイドに縁石があるのも、遠くに来た感じがします。

旧い地図など見ると、今はありませんが電話局や法務局もあり、区内では最初に電灯が灯った地域であるそうです。

常磐線の駅をこのあたりに設ける話もでたそうですが市民の反対が起き、結果華やかな発展や利便性からは遠ざかったもののこうして静かな通りが保たれたのかもしれません。
(確か岩槻もこんな経緯があった)




d0250051_1544045.jpg

南に真っ直ぐ行って、次の直角カーブに差し掛かる地点にある、
昔日の面影を伝える建物。
いくつか残っています。(表面軒先などはお化粧してあっても裏に回ると古かったり。)


にしても大胆なカーブ。

このカーブは「鍵の手式」の防御を意図した造りなのだそうです。












d0250051_15584148.jpg

縁石見てるだけで垂涎(タラ~ン)
お煎餅屋さんがあるのも雰囲気に合っているかも。












少し街道から外れてみます


d0250051_160405.jpg

あ、滋賀によくいる「飛び出し坊や」だ。

















d0250051_1615313.jpg

奥まった所に日枝神社がありました。
都内では珍しい「神武山王鳥居」という形とのこと



























d0250051_163407.jpg

近づくとオートで水が出てきます。
日枝神社だからお猿様の親子。








背後は交通量の多い水戸街道の中川大橋。
















d0250051_1643757.jpg

暗渠様の路地。
この辺り褐色のバッタがピョンピョン飛んでいました。
土手に近いからでしょうか。



























d0250051_1651695.jpg

「頭隠して蓋側溝」(ニャー)
































再び陸前浜街道ルートに戻り、新宿一里塚のバス停を過ぎて現在の水戸街道にさしかかる直前で橋跡に出会いました。

d0250051_1174594.jpg

金阿弥橋。
表札みたいでコンパクトな字体です。

由縁は、周りに寺院が多いから阿弥陀様関係・・・?
金、は何だろう。
金町の「金」とも関連があるのでょうか?

橋が残された水路跡は緑道様に延びていました。
(持ち歩き用の地図(10年位前)には青い水路線)










区を紹介する史跡本には、この金阿弥橋際に、「さくらみち」「なりたちば街道」「水戸街道」と
鮮明な碑文の残る道標あり、と記されているのですが道路拡幅工事が続いていた為でしょうか、
現地にはありませんでした。
(安永年間に架された27の石橋の為の供養のために建てられたものでもあるという)

「さくらみち」は南へ向かい、小岩の北を通過して江戸川を渡河します(一部が江戸川区の親水さくらかいどう)



陸前浜街道からはまた外れて、金阿弥橋を北に戻る形で暗渠を歩きます。

d0250051_11391248.jpg

割と近年まで残っていた水路のようですが、名称はあったのでしょうか・・・
新しい水路だから残っていたのでしょうか・・・?

























新宿小の手前に馬頭観音堂がありました。

d0250051_11423877.jpg

東葛西領新宿は往還駅停の役割を持ち人や荷役の運搬の為の乗継場があり
多くの馬が使われた

この地は宿場時代の馬捨場
、との説明書を読みます。


馬にまつわる地名なんかも昔はあったのかな・・・?
練馬とか、世田谷(上馬、下馬)のように。












路傍にある馬頭観音様ではなく、立派なお部屋のなかにいらっしゃいました。

d0250051_11474975.jpg





















d0250051_11483044.jpg

そしてここにも橋の名残を伝える小さなものが。
「かんのんはし」

古い地図で確認すると、前述の金阿弥橋と観音橋の間に
「日の出橋」も架かっていたようです。























新宿保育園脇の暗渠を通り抜けると
道の分かれ目に、

d0250051_1272138.jpg

石仏が勢揃いしている一角がありました。
奥側の車道が、東用水の跡(水元公園の小合溜から南に引いた上下之割用水(小合用水、大用水とも)を大堰枠で分けた用水)。
手前側が陸前浜街道。








d0250051_1210169.jpg




















d0250051_12111782.jpg

一番南の「八大龍神」様にお供えしてあったのは・・・































d0250051_12122796.jpg

五角形に作られたアクアビーズアートでした。
小学生の女の子の手作りかな?微笑ましい光景です。











d0250051_12135063.jpg

お地蔵様も何体かいらっしゃいます。
左のお地蔵様はちょっとお顔の表面が欠けていて、表情が判別できません。
背後、道路挟んで奥が新宿保育園。









d0250051_12215483.jpg

「帝釈道」の道標もあって
(この一枚石・・・いい形!)




























d0250051_12231072.jpg

リアルな指差しサインが解り易いです!

ここの辺りは、水路跡銀座の様相。












石仏群は元々一区画南西にあったとの事です。

d0250051_14594825.jpg

拡幅されるもの、埋設されるもの。
























陸前浜街道をしばし歩いていくと

おお・・・久方ぶりの新金貨物線の線路にさしかかります。

d0250051_12305437.jpg

踏切名にも「浜街道」

















d0250051_12321131.jpg

浜街道に沿った用水が鉄橋を渡っていたのでしょうか。
(一つ南の柴又踏切でも同様の橋脚?が見て取れます)

これも広義の「橋跡」























この先、西友脇の道を北に進んで東用水と出会った地点が
「新宿14号橋」という名前だったようです・・・
ん~。番号で呼ばれちゃうのか・・



d0250051_12364182.jpg

街の地図看板
(あまり見て歩く事は無いのですが、水路線が描かれていると嬉しいです・・・)
猫じゃらしが侘びさびを添えます










複数の水路が交わっていた「大堰枠」交差点近く
バス停にその名を残しています。
また、1973年の住宅地図では交差点右上に「大堰枠排水場」という施設が記されていました。

手持ちの地図では「大堰枠」名の信号があるように表示されているのですが、現地には存在しませんでした。
上下之割用水に沿って歩きます。(これも前述の住宅地図では“中の割用水”との表記あり)
(浜街道歩きからは上の西友前で外れます・・・)

d0250051_12462595.jpg

その大堰枠バス停前の。。。ペット屋さん。

鳥や金魚の絵はわかるのですが、お猿さんも・・・?












d0250051_12484463.jpg

とても好みの店構えの、化粧雑貨屋さん。
トイレットペーパーじゃなくて、この積んだトイレ紙に惹かれます・・・

積んだトイレ紙、正式名称は何て言うのかなあ・・・

地方のお店でおトイレ借りるとあったりします・・・特にロードサイド系の。



ネーミングも「きら星」。









このお店のパンチある所はこちら。

d0250051_12523258.jpg

サイドにまわると3~4人のマネキンさんのいるショーケース?があるのです
が・・・

斜め掛けの粋なストローハットより
折角のお顔が見えない・・・




















d0250051_1255215.jpg

ジュリーっぽく見える気も。

媚びない風の、アンニュイな口元にも目を奪われます。

このウィンドー側に上下之割用水が流れていました。
嬢達の瞳には、その埋設工事が映ったのでしょうか・・・

風紀検査で生活指導が入るレベルの前髪ですね・・・








d0250051_12582885.jpg

上下之割用水「原田橋」跡。もう常磐線の線路は目前です。





























d0250051_12592188.jpg

現在の原田橋。水でなくて車が流れています。













長く使用してきた地図では「小合用水」と表記されているので、そちらの方が自分としてはしっくりくるのですが、今回は上下之割用水という呼び方で書いてみました。





末広商店街を通って、地図で気になっていた金町駅前のイトーヨーカドー駐車場に水路跡を見に行きます
(この辺でづつうmaxでした・・・)


古い地図で見ると金町駅前(北口)も水路が沢山あって
現駐輪場辺りからヨーカドー駐車場方面に水路線が確認できます。

d0250051_1341828.jpg

金町駅北口~三菱製紙への引込み線、築堤や斜面の枕木、等残っています。
今電車が来てもすっと受け入れられそうな。

築堤のトンネルを埋めたような部分、これが水路跡だと思います。



















d0250051_136544.jpg



















手持ちの地図ですと、水路は現駐車場内を曲がり流れ、常磐線高架をくぐり

d0250051_1311967.jpg

銭湯脇の道路を末広小学校方面につながっているように描かれています。




























この後、浜街道方面をさらに歩いてたりしたのですが、いかんせん疲れてしまい
(いつもの事)後半積み残しが沢山です。


金町駅前果物屋さんで「市川の梨」が売られていたのが、何か良かったなあ。

大型本の「東京都市地図」の冒頭のページ「読図の視点」でも市川の梨畑について言及があったし!







[PR]
# by onnbubatta | 2013-09-13 15:41 | 葛飾区 | Comments(0)


暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体   その他徒然(適当です)


by onnbubatta

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
前谷津川
出井川
蓮根川
石神井川系
田柄川
千川上水
専用水道
渋谷川系
立会川
神田川支流
白子川
藍染川
足立区
地方
石神井川
水窪川
えんが堀
百々向川
蟹川
神奈川
内川
新河岸川
谷中川
さいたま
谷端川
荒川区
葛飾区
千葉
世田谷
江戸川区
中野区
北区
目黒川
未分類

最新の記事

深く険しい谷の変遷を辿る~前..
at 2017-08-17 10:05
薬師の泉からの流れ・・・?板..
at 2017-07-26 16:04
水面に映るもの。逆さ目黒エン..
at 2017-07-13 12:41
江戸川区葛西沖残照~旧海岸線..
at 2016-10-19 14:34
谷端川暗渠。北池袋~下板橋間..
at 2016-06-25 10:21
江戸川区松島3丁目、青の世界..
at 2016-06-15 15:42
旗の台:昭和大学そば。野の花..
at 2016-05-11 12:34
鮮やかに艶やかに散るらむ・・..
at 2016-04-01 14:58
道路計画(大蛇)に飲み込まれ..
at 2016-03-19 15:28
沢蔵司稲荷近辺の麗しい水路跡
at 2016-02-27 12:39

以前の記事

2017年 08月
2017年 07月
2016年 10月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 07月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月

フォロー中のブログ

東京の水 2009 fr...
暗渠徘徊の日々

お気に入り(お邪魔しています)

最新のコメント

> lotus62さん ..
by onnbubatta at 18:10
キタ、ツルマイ池!! ..
by lotus62 at 12:40
>namaさん nam..
by onnbubatta at 20:57
ご無沙汰してます。きょう..
by nama at 12:45
> sumizome_s..
by onnbubatta at 10:16
なるほど、円福寺の南西の..
by sumizome_sakura at 04:21
> sumizome_s..
by onnbubatta at 14:34
> sumizome_s..
by onnbubatta at 09:21
堂山阿弥陀堂ですか。これ..
by sumizome_sakura at 03:13
> sumizome_s..
by onnbubatta at 08:25

検索

アクセス

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧