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夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など

「崎」のついた面白そうな地名に惹かれ訪ねてみました。


初めて聞く地名では無く、pcのお気に入りページ最下段にずっと「夢見ヶ崎」を冠したサイトがあったのです。

以前,日吉のまむし谷と「松の川」に繫る暗渠を歩いたあとに
周辺の地歴なんかを色々調べている際に出会ったサイトだと思うのですが

今見ようとすると検出出来ない・・・残念。


夢見ヶ崎地名を擁する「加瀬山」の独立丘の形も異彩を放っています。
孤高のお姿でもあり神々しい。絶対沢山の籠もったものを内包していそう。

現代目に見えている姿は独立丘ですが、時代によっては海に浮かぶ島だったり
横浜の日吉から連なる台地の末端だったりしたのかもしれませんね。


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_10472054.jpg左が鶴見川支流の矢上川。
最寄駅は横須賀線の新川崎駅。S55年開業の比較的若い停車場です。













そもそも「夢見が崎」というのが現代風のキラキラネームのような印象を受けるのですが
そうではなく、この地を訪れた太田道灌の故事に因んでいるという事で、
ならばいつ頃からそう呼ばれるようになったのか、また地形の変遷など机上で調べているうちに

やはり現場に行かねば・・・と。

道灌さん。
子供の頃近所に「道灌山」という地名があり深く考えることもなくごく普通に接してきました。
ここ川崎の地でも(いや、関東一円に)足跡や伝承を残していて
改めて不思議な響きを与えてくれるのです・・・


夢見る頃はとうに過ぎましたが、初めての新川崎へ。



夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1054987.jpg新川崎駅を左に出るとすぐに見える加瀬山のお姿。
手前の工事地帯は新鶴見操車場跡地の一角。

新鶴見操車場跡地は一部が開発されています。







私は「小倉跨線橋」からの荒涼とした風景~広大な空き地の一面のススキ野原とポツンとした箱のようなモデルルーム・・・も気に入っています。



さて加瀬山に登るルートは複数あれど、最初は北麓から登頂する予定。

山には川崎市「夢見が崎動物公園」があり、そこまでの道程にはアライグマのしっぽマークの
サインが路面に貼られているので忠実に辿ります。


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_112428.jpgテニスコート沿いの暗渠。
(後々追ってご紹介するかもしれません)




























夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1142356.jpg長毛種の夢見・キャット・見返り。

「いい夢見ろよ」













夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_119426.jpg「夢見が崎公園」脇の階段を昇ります。
標高30m余にアタック














夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11111565.jpg蓋的なものが
































夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11114658.jpg当然といえば当然・・・

















夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11184781.jpg一気に登る感じなので息が・・・
















夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1124568.jpg昇った先は了源寺という寺社や墓地。
いきなり墓地があったので少しの驚きが。

そして山の中に元々は11基(それ以上あったという説も)はあったという5~6世紀にかけての古墳の跡を示す標が幾つかあります。
















夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1130753.jpg西端の方にあった白山古墳(4世紀後半築造、南関東では最も古い古墳)、第六天古墳は消滅しています。
(白山社・第六天社と弁天社もかつては存在しましたが、大正4年に天照大神に合祀されて現存せず、社地のあった丘も崩されて消滅)



夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1139610.jpgこんもりした高まりの頂に祠が載っているのが見えますが、蜂がタムロしているとかで見学不可能でした。
(9号古墳&道灌の碑があったらしい・・・です)























夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11404144.jpg意外に広い空間の山頂には、古墳跡や神社・お寺・墓地・動物園と実にいろいろなものがのっかっています。
東山麓付近には貝塚も。









子供たちの学習用の「日吉のタカラモノ探検」の様々な看板が設置されていて、それを眺め歩くのも楽し。


 「加瀬山は海にぽっかり浮かぶ島だった」 

そんなわくわくするイラスト入りの説明版もありました。
縄文海進の頃(約6000年前)・・・に思いを馳せると何とも言えない場所に立っているのだと感慨も深いのですが、
「夢見が崎」という健康的で、華やかな明るい地名の音をイメージして臨んだなか、偶々かもしれませんが気づくと山頂公園には思ったより人も少ない感じ。小さい子も遊んでいなかったし。

急に風が起こり、何だか寂寥とした空気が流れていて、「早く下山したいな~」という気分に支配されてしまったのです。

そっち方面の感受性は鈍かったはずなんですがね・


折角昇ったのに・・・山頂の神社群や富士山が見えるポイントもあったようなのですが
早々と等高線の筋を横切って下界へと。


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_124130.jpg室町時代の武将太田道灌が見晴らしの良いこの地に陣を敷き、築城を計画した晩に
自分の兜を一羽の鷲に持ち去られたという夢を見、築城を断念したという故事も記されています。




もののふにとって大事な兜。それを持ち去られたのは良くないお告げというか夢占ととらえたのでしょう。

その兜が南の鶴見川対岸の山に埋められているという言い伝えもあるそうです。
(行ってきました。また後ほど)


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12124032.jpg地形みたいな雲が出ていました















夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12133269.jpgトーテムポール、子供のころから好きなんですよねえ。
箱根小涌園に昔あったやつとか。



























南山頂から下界へ降りて行きます

夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12194977.jpgまたすごい張り出した位置にお稲荷さんの鳥居が。
横に階段があるのでそこから降りていきます。












夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12213773.jpg階段を降りて山の中腹あたり。
下アングルから眺めるのもいいな。上部がすっきりするから



























夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12253054.jpg道祖神が二体



















そして目に入ってきたのは・・・


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12271072.jpgこれ。
東京電氣
最初全く何のことか解さなかったのですが、「氣」という「気」の旧字を使用しているので面白いな、旧い
ものなんだろうな~くらいにしか思っていませんでした。



















調べてみると
「東京電気」とは東芝の前身。


明治41年、現在の川崎駅前に「東京電気堀川町工場」(現ラゾーナ川崎)が創業、白熱球等の生産を開始する。工場建設に辺り、大量の土砂が必要となり目を付けられたのがこんもりした加瀬山の豊富な土であった。


①東京電気は加瀬山の南東部分一帯(真下のyahoo地図黄緑アイコン周囲)を買収、
夢見が崎から約4km離れた堀川町工場は非常な低湿地に立地しており、その造成や多摩川洪水被害による工場復旧の為に、トロッコで加瀬山の南東部分(境界杭のある地帯)の土が運ばれ続けたのだという。

山が切り崩された時期、土砂が運ばれた時期については資料で幅があるので、長い期間をかけて順次
山の南東部は形を変えていったということなのだろう。

(マルで囲んだ番号は三枚下の地形地図に対応しています)

土砂が運ばれた跡地は国鉄が買い取り、官舎や球場として整備されたのち、現在は特養施設や庁舎、JR社宅が建っている。

山の南東部は加瀬山の中でも一番の高まり・ピークを有し、現在の日吉交番辺りまで山裾が延びていたという。(真下の地図では夢見ヶ崎公園入口の交差点辺り)

「夢見が崎」の小字名が付けられていたのはこの辺りのようなので(現在は小学校名や公園名、商店街などには残る)、往時の突端だったのだと想像して感慨が深くなります。

(夢見が崎地名については後程綴ります・・・)





夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11195665.jpgいつもお世話になっている現地の地図看板に小字名が薄字カッコ書きで表示されています(天地が逆)












夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11231232.jpgこれはまたインパクトのある字名・・・字ドブ。古地図では「土浮」とか「土腐」の表示。
低湿地に付けられる呼称として、全国的に分布しているようです。
こちらの近隣では「長ドブ」などの活用形も。





加瀬山の切り崩しはその後も地点を変えて続行されていくこととなります。

①上述の南東部の切り崩しに続いて

②大正15年(1926)には天照皇大神の西側の山が切り崩され、新鶴見操車場の鉄道用地の埋め立て用に運び去られ、その跡には新鶴見操車場で働く人々の住まいになる鉄道官舎が建設された。


③昭和13年(1924)、現在の白山幼稚園辺り、前述の白山古墳があった辺りも、北加瀬地区の軍需工場(三菱自動車)建設用や小倉・木月近辺の住宅地建設の用途の為に使用された。

④矢上川に続くこの丘も北方の埋め立て用に掘られた。
(番号は下の地図に対応)

夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12513362.jpg図は川崎市のサイトを引用・参考にさせていただきました。
ありがとうございます。










切り崩された場所の現況写真等々、次回以降ご紹介致します。

この地域で稀な「丘」は、豊富な土砂の産出先として近代工業の礎になったということでしょう。


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12581851.jpg加瀬山の土が運ばれた、東京電気(東芝)堀川町工場跡地に開発されたラゾーナ川崎にある工場の遺構。
掘ったら加瀬山の土の成分とか検出されるのかな。

事件捜査とかで土の産出先とか鑑定するみたいに。



夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_1315754.jpg「東芝ブラウン管発祥の地」


















夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_11224386.jpg加瀬山から川崎駅前まで土が運ばれていったのですね・・・











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「夢見ヶ崎」という地名について。

文献で出てくるのは江戸後期に編まれた「新編武蔵國風土記稿」の
「加瀬山」の項に、

「(加瀬山の)東方はづれを夢見崎と云。其ゆゑんを尋るに昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、
其夜道灌己がかぶとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所に飛去りしと夢見しかば、此事不吉なりとて
其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎とは唱るよし土人伝ふれども、
外により所なし


「外により所なし」が気に留まる。。。

土地の人たちの間でこういう話が伝わっているけれども、確かな事は明らかになっていない、という意味でしょうか?

また「加瀬山」そのものに関して、北加瀬村の記述に

南加瀬と当村(北加瀬村)の間に突出し、山の中央を両村の境となせり、高さ八九丈、山上は畑を開けり、
其畑の中に四五坪の小高き芝地あり、松樹二三株立り天守台とよべり。相伝ふ往昔太田道灌この所
に城を築かんとせしかど、故ありてそのことやみしなど土民の口碑にのこれるは前村にも戴する山の
条下にあり、さあらんには天守台の唱へは後人の名付しこと論を待たず。」


山頂には、道灌の故事に因んだ天守台と称えられるさらに小高い地があったようです。


太田道灌は室町時代の武将、なので夢見ヶ崎の地名は1400年代半ばから1800年代半ばの間には
いつしか言い習わされるようになっていったのか・・・と随分ざっくりとではありますが考えるに至りました。


調べる過程で、非常に参考になる貴重な御本との出会いがありました。
場所は武蔵小杉の図書館。地価上昇率ランキングトップ・槌音響く武蔵小杉で降りたのはじめてかも。。!
(武蔵小杉と聞くといつもケイン・コスギさんのお顔が浮かんでしまうのです)


慣れない書棚で何気無く手にした小さな古い本「史蹟名勝夢見ヶ崎」。
高橋東秀さんという地元にお住まいの方が書かれた、昭和12年発行された本です。
年月を経ているので、大事大事にそっとめくりながら読みました。

夢見ヶ崎への愛が溢れていて、この地の事をよく知らない私にもその熱い思いが突き刺さるような冒頭から引用、ご紹介をさせていただきました。


夢見ヶ崎の崗の麓に生れて育つた私は、實に明けても暮れてもこの丘の風情を身にしみて来たものです。
それゆゑ、世間からは、やれ夢見ヶ崎狂だの、道灌狂だのと半ば冷嘲的にさへいはれて来たのです。
私は只、夢見ヶ崎の歴史を瞭らかにし、又、この美しい風光を出来るだけ世に紹介して、久しい間の
念願を成就したいとのみ考へたのでしたが、時運は繞って(めぐって)遂にこの丘のある土地が川崎
市と併合しさうして大きな近代工業都市としてはどうしてもこの崗をわれらが安息の場所として考へね
ばならぬやうになって来たのです。そこで兼々考へてゐたことを記念するために、去る九年以来の計画
を実行しようとする其の一のあらはれとして、この小冊子をまとめ上げたわけなのです。・・・中略
唯、少しでもこの丘の面白さ、ゆかしさ、美しさが胸に落ればそれで満足です
。」


いやいやいや。
「夢見ヶ崎狂」ユメミガサキ・フリーク・・それは最上級の褒め言葉です。。。その道を突き進んでこそ。
この丘が好きで好きでたまらない方が、戦争前夜の9年来著そうとあたためてしたためた本、絶対に面白いにきまってる。


川崎の駅から南武蔵の平野を横切るやうに走る南部鉄道に乗つて、鹿嶋田といふ駅近くなる頃、
間もなく車窓に緩やかな形をした翠の深い丘陵の横はるのが眼に映るであらう。それが夢見ヶ崎だ。

夢見ヶ崎、斯う呼ぶと、その名稱(称)の響きからして、人の胸に何ごとか追走のさゞなみを湧かすであろう。
あれは、夢を懐く丘だ。なつかしい夢を抱く崗だ。

此の夢は、誰あらう太田道灌の夢だ。夢と伝えられて居るのだ。太田道灌は、武蔵の平野を縦横に馳驅
して、白雨の滴より数多くの物語を残した熱血漢だ。好もしいきびきびした男だ。
この好漢の夢であった、夢を抱くあの大きな崗よ、誰か、追懐の心を露の如く注がずに居られようぞ。

元の日吉村字北加瀬、同南加瀬の二つの大字に跨る丘なのだ。

試みにこの丘崗に立ち、佇み、膝を組み、雲の去来する彼方を眺めてみよ。
東に、多摩川の清く美しい波が、川原の小石に白く小さな泡を吹きながら羽田の海へすべって行く。
南に、鶴見川の静かな流れがある。
あらゆる木立の茂みから四季不断の武蔵野の風が湧き、丘を渉るいくつかの斜めな路が串通して、
そこに寺と社の風致を見ることが出来る。

・・・丘に立てば、追想の糸はどこまでも続いて行く。」


東秀翁が何歳くらいの時に書かれたのでしょうか。
旧漢字や文語調の言い回しが難しく、字体から想像して読む楽しさを与えていただきました。
反語が含まれる箇所なんて、こちらが興奮してしまいます。

新川崎駅がまだ存在しない頃の、鹿島田駅付近からの車窓風景の描写が貴重です。
そして山上に立つと、多摩川まで望む事が出来たのでしょうか?

私がふと不安に駆られた突然の風は、武蔵野の風が吹き抜けたに過ぎないのかも。
次にまたここに登る機会があれば、もう少しの間山上に留まって、色々思いを巡らせてみよう。

 
そして、上述の「風土記稿」にある山上の”天守台”について、東秀さんの文でも以下のように触れられている

「兎も角、土人の口碑といふ一事が先づ以て光って居る。里伝の発端が、この道灌懸慮に在るとした。
或はさういふ計画であったかも知れぬ。今、天守台といはれる所に、八幡宮の小祠と記念の石碑が
建って居る。」



加瀬山山上に現在立地する了源寺、ここは妙法寺と呼ばれていた時期もあり、ここの当時の住職と道灌は
親しい間柄であったという。

《太田道灌の夢》という小見出しから、風土記の説を引きつつ、夢見ヶ崎という地名が伝わった経緯が記されている。

「・・・さて、道灌はしばしば此処に来ては、丘上に屯営したといふ事である。即ち、想ふに、戦場の
往き還りか、又は時として四辺の状態を探る為の往来か、或は単なる風光を探ってこの物外の交
りを暖める為か、必ずその何れかであったらう。
斯うして土地の相貌に親しみ、馴れ、眤んでは、勢ひ、軍略上の要害地としても充分に考へられた
ことは相違ない。やがて築城せんとして改めて地相を見直すに至ったとの里伝が生まれるやうに
なったのである。」


古墳時代から人々が住み続けてきた丘の良さを道灌も肌で感じ取っていたのでしょう。

ここから先の話は、「夢見ヶ崎」地名の由来として伝わっている部分が含まれているが、本書には
より詳細な評伝も記されている。

「ある夜の屯営の夢に、忽然として羽音を博つ(広げる)一羽の白鷲、陣営に風を起こすよと見る間に、
其所に措いてあつた道灌の兜をいきなり咬へて飛び去った。凄まじく飛び去るなと見送ると、ここから
九町ほどの距離にある駒岡山に、咬へし兜を放し置くと見て、夢は醒めた。

吉か凶か、瑞兆か凶兆か、道灌としては、まことに気にかかる夢である。思ひ迷うて此の夢のさまを
妙法寺の住職に物語り、且つ其の判断を聞いた。
 
言下に答へていふやう、夢は極めて凶である。此の地の築城思ひ止まり給へ。
東の方、大川のあなたに良き地相の所あれば、そこに落着し玉ふべしとある。」


懇意にしていた住職に夢の判断を仰いだ道灌、「大川のあなたに良き地相の所」=江戸方面への
築城がお勧めされたのですね。
未開の地であった江戸になぜ城を築こうとしたのか・・・という古来からの疑問に対しては諸説存在
しますが、その背景としてこのような逸話が伝わっていたことは初めて聞き及びました。

「・・・ここに恨みを呑んで築城を思ひ止まることとした。江戸城が出来上がったのは之から間もない
長禄元年彌生の頃であつた。

加瀬山の夢あつたればこそ、彼の雄渾なる江戸城に着手したものともいへる。

しかし、道灌は、心を悉く此の丘陵から離すことは出来なかった。それほど愛着が強かったのだ。
寛正六年には、八幡宮の祠を、此の頃の天守台に建立したと伝えられる。
天守台といふ名は、前にも述べたやうに、恐らく築城配置の縄張り当初に考えられた場所なので
あつたらう。加之、ここに和歌一首を詩吟せられたのであつた。


さまゞの 眺めも果てずよしや世の 夢見が崎の春のあけぼの

和歌の題に、夢見ヶ崎とあると伝えられるから、いはば、文明五年の彌生の頃にあつて、己れ夢
の不可思議を思って崎の名になしたものか、或は又、此の吟詠ある以前、既に夢見の話が著名
となつて、誰称ふるとなく、加瀬の丘陵を夢見ヶ崎といふやうになつたのを、道灌も亦ほほゑみ
うなずきしつつ、柔らかな春のあけぼのを詠んだものか、何れにしても、夢見ヶ崎の夢は、正しく
大なる覇業の根本を、底から覆がへしたものとなつた。
成らざりし昔の事から、夢見ヶ崎の名に表われる物語を以てその解説の妥当としたものか。
そこに星霜(年月)久しき里伝成長の妙があつて、白銀の如き滴歴を下して居るのである。」
 


東秀翁による夢見ヶ崎地名考、佳境から一気にクライマックスに突入した感じです。
最後の一文の後半あたりは私はよく解りません・・・

道灌が詠んだとされる歌はやがて了源寺の住職に与えられ、色紙一筆がとある家に宝として伝わっている
との事です。

登場する年号:長禄元年(1457)、寛正六年(1465)、文明五年(1473)だけでも16年間に渡り、道灌と当地との深い関わりが推測されます。それ以前に幾度となく道灌は夢見ヶ崎を訪れているとされており、各地を駆け回った太田道灌(1432~1486)の人生の於いても、この場所は思い入れの強い特別な地のひとつだったのでしょう。
(しかし年号が頻繁に変わる)

道灌が生きている間に夢見ヶ崎の地名が既に定着し、離れた場所にいても聞き及んでいたのでしょうか。
それとも時間の経過をみたのち、道灌の故事を引いて呼ぶようになったのか・・・

また、夢見ヶ崎には昔より「二十六夜会」というものが伝わっていたそうです。
道灌の死後、道灌を敬慕する土地の人々が年々二十六夜に月を鑑賞する集いであり、天守台の観月地で
昔語りなどに興じたというもの。

加瀬山~夢見ヶ崎の夜の闇には人々の心や歴史までも動かす摩訶不思議な力が宿っているのかもしれません。昼間でも不思議な風を感じたので到底夜になど近づく気がしないのですが・・・


結局「地名考」と言いつつ殆どが引用になってしまいました。。
この素晴らしい本を目の当たりにして、耽溺しています。



夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12255386.jpg持ち去られた道灌の兜が着地したという、駒岡。
ここもまた山の上(丘ってかいてあるけど)にあります。












夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_12272010.jpg道灌さんの「灌」の字が金へんになってて面白い~。
史蹟の説明版には、江戸城を構成する支城の候補地を選定すべく、加瀬山を訪れたという
史実の記載になっています。









紫アイコン、上末吉小学校辺りが兜塚。
鷲は夢見ヶ崎からほぼ真南の方向に飛んでいき、鶴見川を渡った辺りで兜を落としたようです
(重さに耐えかねたのか)


*****************************

次回以降、夢見ヶ崎周辺の細かい散策、暗渠探しも綴っていきます。
あとは、道灌さんの通った道はここかな~とか。

最初に来た時は右も左もわからず、完全に異端者というか。この土地の香りが思うように把握出来ず。
二回目くらいからでしょうか。やっと「日吉に近いんだ・・・というよりここも日吉と呼ばれていたんだ」みたいな
基本的な地勢が見えてきて(普通の人には当然に見えても自分には何故かこの点が欠落していたのです)。

そうなってくると感じ取る事も見えてくるものも不思議と多くなっていきますね。

旧いものが集中的に点在していて、本当に興味の尽きない土地でした・・・!

最後に「夢見ヶ崎音頭」というのがあるそうなので、抜粋してご紹介させていただきます。

「〽ハア~ 春は桜の夢見ヶ崎よ(ソレ) 中略
太田道灌 日吉の里に 日本一と 折り紙付けて
お城を築く事 決めたとさ
・・・・・」


伝道灌さんの和歌もゆかしくて良いですが
こちらは盆踊りでしょうか。体を動かし移動しながら夢見ヶ崎の地名を口ずさみ踊れるのが
いいですね。


2020.9.7追記 


夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_23060861.jpg



加瀬山周辺地形図(左の図、明治29年~明治42年)




夢見ヶ崎~崩された加瀬山と「東京電氣(東芝)境界杭。夢見ヶ崎地名考など_d0250051_23060883.png
加瀬山周辺航空写真 昭和11年

# by onnbubatta | 2014-01-29 12:45 | 神奈川 | Comments(16)

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか

相変わらず順不同・内容も迷走していますが、本年も宜しくお願い致します。
いつもお読み下さり、ありがとうございます。


葛飾暗渠巡礼はまだまだ続きます。


新柴又近辺から。

この辺りは葛飾区鎌倉という地名なのですが、その由来として

○相模国鎌倉郡の人が開発者
○村の鎮守として鶴岡八幡宮を勧請
○北葛飾郡(埼玉県)鎌倉村の飛び地があった

等々、諸説が存在するようです。

話とエリアが飛びますが、葛飾区北部と接する三郷市にも鎌倉のつく飛び地があります。
この話二回目になります・・・

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_14394244.jpg
まるで島のような形状。一部は大場川に掛かっている点でも興味深い。
この辺りは別の地名でも飛び地が散見されます。


元に戻ります。




葛飾の鎌倉辺りは境目がグニャグニャしていて道も内臓を想起させるんだ。
有機的で好きな場所です。




葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_14501685.jpg
北総線の高架下が公園になっており、そこにあったカラフルなブランコ。
腕力自慢のパイレーツ的風貌のアニキ(空洞多め)がちびっこを待っています。










葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_14543014.jpg
北総線の高架を外れて明るくなりました。
佐倉街道(さくらみち)に出ましたが、この辺り旧道の面影は特に感じられず。
(昔、さくらみちの事は花の桜だと思っていました・・・)

もう江戸川区との区界に近く、江戸川区側に入ると親水緑道を備えた道へ姿を変えていきます。

この辺りの区界線がまた鋸様で有機的な感じ。






葛飾区・江戸川区は掘割が縦横に行き交い、地点での正式な名称がよくわからないものも
多い中で、「帝都地形図」にはっきりと記載されていたのが

「伊豫田堀」。
何てお呼びしたら良いのだろう。いよたぼり?いよだぼり?

スウェーデンの「イエーテボリ」みたいな語感でもある。
愛媛とも関係あるのだろうか。
→北小岩周辺の開拓者に篠原伊豫氏という方がいらしゃいました。元は市川の里見氏の家臣で
「安西伊予守実元」と名乗っていた時期もあったとの事、里見氏が国府台の合戦に敗れたあと、
この地に逃げてきて耕作に従事し、「伊豫田」の新田を開発したそうです。追記
しかし「伊豫田」と呼ばれた地域はここより南西に少し離れた北小岩3丁目、京成江戸川駅周辺。
そこまで水を引いていたのか・・・?う~ん。

田が広がっていたのでしょうね。

文献を詳しく当たった訳では無いため、どのような系統かもよくわからないのですが、(小合溜からの小岩用水系統?)伊豫田堀行ってみます!
というか以前に何度か歩いた事はあったのですが、お名前付いてるのが判明し、俄然再訪したくなった次第
です。
(帝都地形図の古地図は誤記も散見されるけれど)


葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15212054.jpg
帝都地形図で伊豫田堀と記載されているのは、明るい水色の方の線。
青い線は分流していたのかもしれません。










リブレ京成というスーパーを通り過ぎて、江戸川区に入ります。この佐倉道に沿って流れていた水路もありました。

鎌倉新田辺りは近くに江戸川の長流がありながら、明治大正期まで圦樋の施設が無かった為
遠く水元の小合溜から引いた水に頼っていたといいます。
末流の位置に当たる為に炎暑の時期には水が枯れ、また途中の村々からの取水によって
水が届かなかったりと、耕作には不便をきたしていたそうです。。

眼前に大河がありながら遠方から水を引いてくる・・・川崎の鶴見川近くでも聞いたことがあります。
近くの鶴見川が感潮域であり塩分が含まれるために距離のある多摩川からの二ヶ領用水系統用
水を使っていた地域の事を。

・・・閑話休題。


この界隈にしては割と広めの道。唐突感があるいつもの匂いがします。
何か必要以上に広い道路って・・・川跡のかほり。

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15305285.jpg
ここがもう伊予田堀です。(この表記もあり)
南へ歩いて行くと道幅が次第に細くなってすぼまり感。



























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15325542.jpg
この分かれ道を左へ行くと


















葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_1534189.jpg
暗渠があると黙示してくれます。






























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15355675.jpg
soon分岐が現れるので、帝都地形図の表記通りまずは左に歩いて行きます。
この地点からまた葛飾区に出戻り。忙しい。











葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15504275.jpg

































葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15532061.jpg
以前に来た時と大きく変わらない風景にしばし安心。





























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15541569.jpg
この先は突如として行き止まり。

そこからがまた江戸川区北小岩。
分岐地点に戻ることにします。























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_15583730.jpg
戻ってきます。






























分岐点から、南方向への流れを追ってみます。

葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_1602485.jpg
艶めかしい屈曲を見せつけてくれますね。






























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_1623866.jpg
あら、こちらの流れの方が趣度高いかな。

西早稲田の暗渠(いなほ製菓脇)が思い出されるなあ~。こういうこげ茶の木目のお宅が印象深くて。






















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界隈の緑の豊かさに人々の営みを感じます。
















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二つの接した戸口路面にゴーグルみたいなマンホール。
















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神社の脇に出てきました。

「鎌倉八幡神社」




























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_1695831.jpg
突当りが重厚な漆黒の蔵を擁する質屋さん。

ここで明瞭な暗渠痕は失われますが・・・

この先に私のお気に入りの橋跡(正確にいうと橋の名残。。。?)があるので
そこを目指します。


















葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16144240.jpg
一旦柴又街道に出ます。

この道もあまり大きな変化は無く、古い商店もまだ見られます。

























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16172076.jpg
目印となるお寿司屋さん。
高貴な紫の暖簾が、橋跡への入口を告げてくれるのです。



























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16194078.jpg
候補者看板の足元に何かブツが見えますでしょうか・・・





























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16203215.jpg
「重兵衛橋」

これ、往時のものかどうかは定かではないのですが・・・
この形態のが周囲にあるわけでは無いので昔から気になっているのです。






江戸川葛飾は掘割天国なのにね。あ、小岩に一件こういう趣の小規模なのあるので最後にご紹介します。

教えてください、重兵衛さん!


葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16223934.jpg
重兵衛橋の暗渠はこれまた先細りしながら東へ延びています。




























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_16243426.jpg重兵衛橋の後ろ姿。ゴミのプランターと支えあう日々に哀愁を覚えます。

ここの流れ、古地図で確認すると
お寿司屋さん過ぎて柴又街道を越え、小岩用水とクロスするまでの間、仙蔵橋・勘七橋と人名風の橋が架けられていたようです。



葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_11254019.jpg
赤が印象的な冷蔵庫。
廃墟様の中にある鮮やかな色味に自然と引き寄せられます






















青いアイコンが重兵衛橋の位置、
オレンジは仙蔵橋です(写真は無し)


地図を見ていると、(真上の地図緑アイコン付近)この辺り京成本線の線路沿いに
「まんだら公園」というのがありかねてから気になる存在だったのですが、江戸時代に近辺で1499年銘の
「南無法蓮華経」と刻んだ板碑が発掘されたことから、この板碑を「曼荼羅」と称して
この付近を「曼荼羅村」とも呼んでいたのだそうです。


葛飾区役所辺りからずーっと続く真っ直ぐな道、古代東海道(と推定される大道)に向かって歩いて行きます。
(隅田~市川の下総国府を結んでいたそうです。古い呼び名は府五十五号隅田市川線)

現代の地図では「超一級の幹線道路」には見えませんが、きちんと比較的綺麗に東西に繫がっています。
何度か地図で確認を試みるのですが、この道が「○○号線」というのがあまり表記されていない気がします。
勿論ちゃんと管轄があって、番号もあるのでしょうが、なんかいつもはぐらかされているのです。



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鎌倉1-15辺りの暗渠。出た先が古代の官道






























葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_11422387.jpg
幾度となく通過した道。
古代東海道・・・なんて初めて知りました

立石の「立石様」(行ってみたい)はおの古代東海道の道標では?という説があります。






















葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_11424663.jpg
古代東海道を挟んで、愛国学園お向かいの暗渠道。
ここに架かっていた橋の名前も「喜右衛門橋」。















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橋跡写真のおまけです。南小岩の源四郎橋。これも人名橋


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橋跡の痕跡を示すものが見えますでしょうか?
電柱の根元付近です。















葛飾の鎌倉を歩く~伊豫田堀ほか_d0250051_1047865.jpg
水路があった当時のものかどうかはわかりませんが
表札を一回り大きくしたようなサイズ感と、「三丁目 源四郎」の名乗りが気に入っています。
漢数字が二つ入っているところも。
# by onnbubatta | 2014-01-21 11:50 | 葛飾区 | Comments(2)

新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)

何かいつも順番的にぐちゃぐちゃですみません。。


まだ暑さの残る初秋、幾度新小岩で降り立った事でしょう。

人生初の新小岩、色々ありましたが、
その日はあまり大きな収穫もなく足もフラフラでもう帰りたくなっていた矢先にたまたま遭遇したもの。


地図でも見ると現場は「新小岩操駅」と呼ばれる場所。
操駅、って何か聞き慣れない用語。現在は正しくは「新小岩信号場駅」らしいのですが
現地の看板には「新小岩操駅」と掲げられていました。

国鉄民営化に伴い、以前北口にあった操車場や工場は廃され、私学事業団のグランド等に。
現在は小さな操車場として貨車の入換作業や機関車の方向転換を行う機能を有しているとの事。


新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10243058.jpg
突然現れた蓋暗渠。総武線の線路南側に沿って延びていました。




























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10372978.jpg
看板より西側(JR新小岩駅方面)には蓋無し。




























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10303125.jpg
中学校の向い辺りで
蓋暗渠はT字路を形成していました。














新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10333111.jpg
T字路の縦棒部分は数メートル、蓋数枚で一般的な歩道に切り換わります。

何よこの変わり身の早さは。
























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10411450.jpg
ドッキング部分を反対側から。

















新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_1043685.jpg
葛飾区の四角いマンホールを乗せ、センターラインまで引かれています。




























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10451134.jpg
北側の操駅建物を過ぎると視界が開けて明るくなります。

奥に見える陸橋は小松橋。



























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10494177.jpg
側面からの鑑賞も欠かしません
















新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_1050877.jpg
振り返って眺めるとこのような感じです。





























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10505515.jpg
線路際の箇所で意志を見せるかのように屈曲します。




























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10525310.jpg
最後の屈曲箇所でガードレールの色と形状が変わります。






























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10543275.jpg
ここまで辿ってきた蓋暗渠、総武線の線路に突き当たって終焉を告げるのですが・・・
(丁度電車が来ました)

























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10563873.jpg
ということは、ここが橋梁になるのではと考え、近づいて痕跡を探すと・・・

右の方にプレートがあります。
探偵気分。









新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_10591980.jpg
「枝川橋りょう」

枝川という名称の川の橋梁・・・?
それとも何か水路幹線の支川のようなニュアンスで「枝川」と管理されているのかな?






新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_1175170.jpg
隙間から水が見えるか覗いてみましたが、隙間狭すぎ。
赤いペイントは何なんでしょうね。


























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_119391.jpg
脇にもう一つ埋め込まれていたプレート、「基礎坑標」。

そのへん詳しくないので内容は理解できず。でも最下欄の「記事 摩擦」って気にかかります・・・











手持ちの和楽地屋さん地図(昭和30年後半~40年)にはこの水路が描かれており、線路を越えた箇所にも
水路が連続しているように見えました。


線路を越えた地点。南を向いて撮影しましたが、反対側の「橋りょう」のようなプレートも存在せず暗渠の痕跡等は薄い。

新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_11194410.jpg
















新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_11202134.jpg
線路北側の水路部分はこんな感じの緑道に整備されています。
私学事業団運動場隣。

雑にブレちゃったので伝わりにくいとは思います・・・





















新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_11224255.jpg
新小岩北口エリア暗渠については後日の報告をお待ち下さい。



























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_14513489.jpg
小松橋陸橋下を華麗に通過する、「塩化ビニル」の貨車。














新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_14535014.jpg
留め置かれていた、「突放禁止」と書かれた台車のようなもの。
川崎貨物、とか神栖といった遠い地名が記入された紙を付けられていました。








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水路が網の目のように展開する低地地帯ですから、ここのように線路をくぐっていた水路に架橋された橋梁
の痕跡は他にも幾つかあると思います。
あと一か所、総武線の線路に関して橋梁跡を確認したい場所があるので、いずれ訪れてみたいと考えています

(葛飾区内の新金貨物線では何か所かで見られます)

ここからなるべく線路に沿って東へ進んでいきます。
(公図上、この道筋も水路)

新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_152152.jpg
!!

何か堪らなく私の好きな感じのイラスト!














新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_1563361.jpg
手前がポケットパークのようなちょっとした空間。ベンチもあります。
足が痛かったけれど、興奮しすぎてベンチでの休息すら割愛。

金網越しに調査すると





新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_15112589.jpg
暗渠化されている「中井堀」の水面が顔を出しています。。感動の瞬間。

新中川の開削により分断され、上流からの通水が不可能となり暗渠化された中井堀。






以前の記事で少し触れた東井堀等とともに水元公園にある小合溜井から引かれた幹線水路であり、
現在は道路として利用されています。





新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_15132451.jpg
「帝都地形図」でこの場所についての言及があり
「黒く濁った水の流れを確認することで、往時の清らかな水を湛えた中井堀の姿を想像するほかない」






思ったより黒くは無かったですが、濁り淀んでるのは間違いなかったです。





新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_15202826.jpg
そして・・・水面ばかりを凝視し続けていましたが
上部を見やると

ここにも橋りょうのプレート?!
























新小岩操駅前の蓋暗渠と、中井堀の開渠ポイント(開口部)_d0250051_15212172.jpg
「中堀橋りょう」


「中井堀」表記ではないけれど、確かにここにも橋梁プレートありました!












もう興奮で息も絶え絶えな中、雑草の中に無我夢中で長い事立ち尽くしていた私の足に
ピリピリッ」とした非常に嫌な感触が走りました。

昨年チャドクガにやられた時の感触に近いものを感じたのです。。

一瞬顔面蒼白になりましたが、一度に蚊に数か所刺されただけでした。でも猛烈にかゆかった・・・

露出もしていないのにブサブサ咬まれてしまいました。ここに観測に行かれる方は留意されて下さい。




葛飾区新小岩と、江戸川区上一色の境界線にありました。
# by onnbubatta | 2013-12-06 11:46 | 葛飾区 | Comments(0)

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道

葛飾に憑りつかれて徘徊したり地図を眺めたりしているさなか

「おお、これは・・・!」と目を見張った地帯あり。

明らかに川の蛇行を改修した痕跡。


越境して、おそらくはじめての三郷市入りとなりました。


暗渠というには規模が大きい。メガ暗渠かな?

やはり境界モノかな~暗渠界のlotus62さんが「境界ハンター」として既にご活躍♪、私も猟友会の端くれとして綴ってみたいと思います。宜しくお願いいたします。

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16480210.png三郷市と八潮市に跨る市境線。

古代から中世にかけて、下総~武蔵の国境を為していたそうです。





















↑ブログ執筆当時に貼っていたyahoo地図がリンク切れになって隙間が不格好になったため、
2022年の地図を貼ります。
(秘宝館が気になります)

「金町の北にある」くらいの情報しか持ち合わせず、北口からバスが発着するものと思い込んで
いたら、バス停にはそれらしき行先が書かれておらず。。

バスの列に並ぶのか並ばないのかどっちつかずの体制でモジモジ混乱していたら
背後のご婦人から

「並んでるんですかっ013.gif」とプレッシャー。。

ん~でも一番前の座席を確保できそうだったので、乗っちゃいました。
(かなり手前の葛飾西水元辺りで降ろされましたが、発見もあったので良しとします~)


中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11161022.jpg市境線の東側辺りに自然堤防が発達しているのが判ります。
戸ヶ崎の地名はそこ辺りから起こったのかな。


楽しみ~










中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16480210.png


























河道跡区画は梯子状になっているのです。

市境が大場川と接する地点は八潮南公園になっています。
八潮市側には近接して日本煉瓦潮止工場がかつてありました。
(潮止、はこのあたりまで感潮域であることから付けられた地名)
いつまであったのか正確に確認できていないのですが、昭和60年くらいの地図ではまだ残っていました。地図の下、屈曲している「大瀬」周辺です。
(元は江戸川沿いにあった金町製瓦が設けた工場。金町製瓦はその後日本煉瓦に吸収)

中川沿いは煉瓦や瓦の製造が盛んだった時期があるようですね。

日本煉瓦といえば深谷が有名ですが2006年に清算し、最終的な本社所在地は板橋区大山であった
とwikiで意外な発見が。(渋沢の縁ですかね)

さあ歩き始めます。


中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11242236.jpg南を向くと、水路が開渠で細々と抑制された姿を見せてくれます。



























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11271294.jpg




































北側を向くと

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1129981.jpg青い水門とポンプ小屋。
赤・黄の縁石?。

三色揃うと公園ぽい空気が醸成されます。

実際ここの一角も公園でした。





















水門の裏側に回ります
中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11314185.jpgまだ水を湛えていますが、わずか数メートルで突如細流の水面はなくなり、
何事も無かったかのように整然とした住宅地が現れるのでした。
























意外な事に、当該市境ラインの真上は住宅街の静かな道路と
家々の境目とを繰り返し成して行き、

凹んでいるとか水の痕跡を想起させる路面は見つけられず。
(今回境界線の東側を少し歩いたに過ぎませぬが)

埋まった大河は見事に均され、周囲の住宅地に変貌しているのでした。


実に静かで落ち着いた戸建中心の街並みが佇んでいるので
「ここが当に境目!」的な写真は撮りませんでした。





しかしながら、すぐ脇に蓋暗渠道が市境界と平行するような形で連坦としているではありませんか。
大河の土手下で水を受ける側溝の如く。

こちらからのお誘いを受けたので、歩いてみることにしました

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11482463.jpg幾何学的に装飾された車止めにこんにちは。





























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_11495722.jpg
横から愉快な蓋も仲間入り&参戦してきます。






























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1151136.jpgドッキングの現場


















中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1154754.jpg歩き進めると、「片側に幅寄せタイプ」に変化したり。





























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1155484.jpg蓋自体の形状変化も楽しむことが出来ます。

車止めの片方は蓋を貫通していて、
柵は跨ぐタイプになっています。
























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_115904.jpg対峙する






























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1201583.jpg


道路と交差する地点の脇、お店が並ぶ一角に建っていた
おそらく水神宮。

表面の、上半分くらいは欠損してしまっていますし
サイドも斑に剥落しかけているのかな。

水神宮。水元ではいくつも見かけました。
















中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_125355.jpgここは屈曲が出てきて魅惑の地点です。

柵は片足突っ込みタイプ。



























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15245616.jpg乱入者その2
































中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1527711.jpgここで、広めの車道と交差します。
横断した先にも蓋暗渠が連続しています。



























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15294026.jpg































中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_153006.jpg




































この先も気になる所ですが、蓋暗渠追跡はここまで。
境界線上に存在した水面は僅かなれど、この「メガ側溝」歩きも実に面白かった!

車道(バス通り)を右方向へ進み、また市境ラインジャストを目指します。


中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15381926.jpgまた路傍に時を物語るものが。
赤いコーン衆の三名を従えて、ガードされているのかもしれません。












中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15414443.jpg上部には欠けた痕跡と、円型に文字(もんじ)?のようなものが囲まれています。
寛政7年の銘もはっきり。


























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1549248.jpg通りに面して、雰囲気のあるたばこ屋さん兼洋品店がありました。
そこの角にあったレトロな丸いポスト。

























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15501640.jpgこちらの看板娘さんもランドマーク・・・?
伏し目がちでアンニュイですが

























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15532884.jpg異次元にワープ中の美女

何か目を見開いちゃったみたいに見える~



























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_15572086.jpg異次元から戻ってきた美女

こういうお店があるのは、ここが旧くから人が行き交っていた通りだからでしょうか。

























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1603370.jpgそして京成バスの戸ヶ崎操車場。
操車場といってもこじんまりとしたスペースでした。

河道跡が、バス通りと交わる地点の脇に立地します。










lotus62さんの提唱?する「川跡=バスターミナルとしての転用」説の条件とも符合しております。



大河の川床を起着点として、今日も人々の移動を担う。

帰りはここから無事にバスに乗り、川床から揺られる感慨に浸りつつ金町まで辿り着くことが出来ました。
(金町駅南口の立派なロータリーに着きました)

ここから北、中川との接点までは未踏。また訪れたいと思っています。



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中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16294687.jpg葛飾区側・大場川の土手手前で遭遇した水神宮














中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1630597.jpg笠を被って斜面につくねんと。































中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16313239.jpgたまたまここの近くで鳥居が見えたのですが、地図には神社の表記がなく・・・

ここについてはまだ調べ中。普通の民家かも?






















中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1634458.jpg水元の閘門橋へと至る通りの土手下に見えた、これもおそらく水神

























中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16384667.jpg






流れのある川というより、溜のように穏やかな大場川














中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16394768.jpg水元公園内に残る、浅間神社跡の高まり。















中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16523159.jpg地形図上でも盛りがあるように見えます
(社殿は現在無し。昭和初期の地図には参道と社殿のような表記あり)







中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_164225.jpg煉瓦造り(金町製瓦製)の閘門橋。元の名を「二郷半領猿又閘門」。
都区内では唯一の煉瓦造りのアーチ橋。

古利根川(中川の埼玉県側の呼称)・大場川の水害を防ぐ目的で明治時代に設けられました。





今回歩いた旧河道はこの橋のすぐそばで合流していた事もあり、古くからの洪水多発地帯。

葛飾区側の「猿又」辺りには出水のさなか、自ら人柱となった老人の物語が伝わっているそうです。
(不思議とその後に水の勢いが収まったとか・・・)




中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_16424321.jpg落し物を拾って下さる駅員さんの姿にも似ています。













中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_178467.jpg



三郷市側に入り、二郷半領用水にまたもや煉瓦造の橋が。

ここの煉瓦も金町製瓦と関係あるのかな?
(エリア違いますが、先日十条で見かけた陸軍施設遺構の煉瓦塀も金町煉瓦のものであるとの
事でした)












中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_179193.jpg



肥船が往来していたんですね。。

















またこの辺りは、「鎌倉」という飛び地が島状に残されていて興味深いです。
(戸ヶ崎、の飛び地も散りばめられています。整理関係でそうなったのでしょうか・・・)

大場川を越えて葛飾区内にも鎌倉地名があり、「さいたまの鎌倉村に由来している説」を聞いてこの辺りを指すのかな?と興味津々。

葛飾の鎌倉界隈も歩いていますので後日暗渠散策レポート致します。

中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_17131624.jpg鎌倉飛び地、一部は大場川にかかっています。

大場川に向かって、住宅地の中に並行して縦に伸びる道は二条通りとか八条通りなどと
条里制のような名づけがされていました。


最後に
中世の国境地帯及び大河の川底を歩く~三郷・八潮間の旧中川河道_d0250051_1715356.jpg東武ガスのマンホール

# by onnbubatta | 2013-11-26 12:04 | Comments(8)

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪

久しぶりにカテゴリー「神奈川」をチョイスする時が到来しました。

(葛飾の暗渠を巡礼しているさなかですが一回神奈川を挟みます)

タモリ俱楽部で紹介されていた「平面クロスの線路跡」を見てみたい欲望にかられ
「横須賀軍港めぐり」クルーズと合わせて遠征してきた次第です。

私の軍港めぐりの主目的は「新井堀割水路を航行する」。

元は三浦半島と陸続きでそこから突き出た「箱崎半島」、ここを水運の便に供するために
掘削し切り離され、今では吾妻島と呼ばれた島がそこにあります。



横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1234799.jpg

激しすぎ、険しすぎ・・・

行きの京急の車窓からもう萌え死寸前、酸欠状態でした











次の用事までの間をりようして降りたので、田浦には30分くらいの滞在
(あまり電車も来ない)




横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1263834.jpg

JR田浦駅下り側にあるトンネル3兄弟のうちの二つ。
草ぼうぼうなのが、これから見に行く線路へと続いているようです。



階段を昇り跨線橋を渡り再び階段を降りていきます。







横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_12211213.jpg


唯一見かけたお店。「夜城」
駅からすぐの左手崖直下、岬の聖なる力が宿ったお店かもしれません

魅力的なお店です・・・
(上の地図黄色のピンの左辺り)

















駅を出て車道を右に進むと、相模運輸倉庫という会社の倉庫群に目を奪われます。


横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_12254317.jpg

秋晴れの青空に鋭角際立つ、のこぎり屋根。
ネットの記述に拠れば、軍の兵器修理庫であったとのこと。

しかし・・・金網で囲まれ「国有地」の関東財務局看板・・・
公売の物件なのでしょうか・・?
(詳細に看板をチェックするのを失念しました。また財務局の入札予定表にも見当たらず)





横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_12304012.jpg

のこぎり屋根の隣の倉庫。

造りがそれぞれ違って、飽く事無し。














横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9542322.jpg

比与宇隧道方面に向かい東へ歩いていきます。

そして表れた 軌道跡。
白い建物は地図上で合同庁舎とされています。
庁舎内にはゆるキャラっぽい人形がありました。

庁舎よりにもう一組の軌道跡があります。
















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_12362336.jpg

来た方向に向けて戻り撮影。(西向いてます)

背後は上述の二つの倉庫。


分岐していますが、どちらもその先がよく分かりませんでした。






この西向きアングルのまま少し後ずさり状態になると、
その軌道跡状態に驚きました

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1074483.jpg

まさに線路が交わる地点が
水没・・・?した状態。

ストリートビューを見る限り、草むしてはいるものの
水は溜まっていないように見えましたが・・・時限的な風景なのでしょうか。

何だか水田の一角にも見えるし、何とも不思議な眺めです。















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10111516.jpg

この区間だけの、湿地然とした水景。

太い釘も見えています。






















最後に載せた地図の、ピンクの印の地点。


横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1018259.jpg

比与宇隧道方面に進んでいきます。
































横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10202672.jpg

再び振り返る。

草むした箇所、のっぺりレール跡だけの箇所・・・と次々と状態が変わっていくのも面白い。

しかし現地はストリートビューや、他の方のブログ写真とは違う箇所があちこちに散見され
段々と痕跡は消されているように感じます。

この界隈で起きている変化を感じ取らずにはいられません・・・何だかざわざわ。










横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10274538.jpg

この後、一旦川でレール跡が遮られます。

川の手前の地点はレールの間から草がたくましく線状に生えていて
独特の光景を見ることが出来ました。

草たちよ、鉄路に挟まれながら何を思う。

「もう俺たちレールを敷かれた人生、はみ出しちゃわないか?」















吾妻川という川を渡ります。

普段なら水路の方に反応するのに、この日はこれを辿ろうという気も起きない程
レール跡に没頭しておりました。


横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10255214.jpg

振り返ったアングル。
真新しい綺麗な橋だったので最近架け替えられた模様です。
SVでもそんな感じの普請中画像でした。


しかし・・・線路が川を渡るガーター橋の土台のような工作物?が見える!








地図の黄色い印地点







横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1040718.jpg

これ絶対そうじゃないかなあ!?
キャー。





























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1041523.jpg

残念ながら、渡った側(比与宇隧道に近い側)には痕跡はあるものの
上の写真程の明白さは無い。

(お隣の合流口が寄り添ってるのが 何か可愛いです。)
(橋のあからさまな痕跡なくてゴメン・・・でもアタシも並んでるよ)

川の水深は浅く、水は穏やかに透き通ってゆらゆら。
河口に近い小河川の雰囲気が漂います。






(何だか沖縄の川を思い出します・・・吾妻川の事は詳しく調べていませんが、
山の水を集めて短い距離を海まで流れるような感じ~平地が少ないから)




横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10454110.jpg

その先は、路面が砂利敷になり、レール跡もあったり無かったり。





























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10483732.jpg

この辺りは砂利より土が勝った状態。

先に停まっている軽自動車がレールのちょうど上くらいに位置しているのが
面白かったです
(意識しているのかな・・・?)





















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10535522.jpg

いよいよ平面交差地点が見えてきました。































横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1058596.jpg

二か所ある平面交差部のうち、西側の交差部。






























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1104383.jpg

港の方向に向かい北へ続いて延びているようです。




























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1141295.jpg

道路を横断して山側(駅へ向かって延びる線路)は草がぼうぼうで様子を判別しづらかったです。
(草の根元にはレールが確かに見えますが)


























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_117280.jpg

隣接するもう一組の平面交差跡。

こちらの方がレールの露出?が明瞭です。


























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1191898.jpg

先程の平面交差跡と同様に、港の方へ続いていきます
(金網の内側、草が生い茂っている箇所)

港の方に線路が続き、また別の線路もあるようですがここから港方向へは確認していません。

倉庫を囲むグリーンのフェンスはSVでは見られないもの。













横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_11142835.jpg

道路を渡って、駅方向に向かう線路跡。
曙機械という会社の脇。


























地図の黄緑印の地点。

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_11165987.jpg

巨大化したサボテンと、杭の残骸のようなものがありました。





























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_11175690.jpg

































横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_11182835.jpg

今回見た中では、水没レールの地点と同じくらいレール痕跡が明瞭だった地点です。
(レールの脇の木の部分~正式名称解らず~も残っていますし)
























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_11202053.jpg

道路を横断していた地点。倉庫側を臨んで。

この線路跡を訪れた方のブログ写真で多く目にする象徴的な踏切機が
ここに在ったはずなのですが・・・






車道脇の歩道部分も境目の舗装が白くきれいに見えますし
道路整備と一緒に消えた可能性も・・・


このアングルの倉庫、威圧的でドイツ権威主義的な(何だよそれ)立ち姿・・・

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1157251.jpg



















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1213019.jpg

私が辿ったのはこの辺り、相模運輸倉庫の印象的なサイロと倉庫がある地点まで。

写真奥に迫る山を貫くのが比与宇トンネルです。

ここの地点、SVの画像では道路を華麗に斜め横断する分岐線跡が確認できるのですが・・・

現地では気づきませんでした。写真にも写っていない様子ですし、既に撤去?









横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_1245899.jpg

レールに挟まれた箇所の痕跡が化石化していて、もはや遺跡のような様相。



























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_126979.jpg

相模運輸倉庫のサイロと倉庫。地図水色の印地点。

ここも、以前には見られなかったフェンスに現状取り囲まれています。

ネットで情報を集めると、前述の「斜め横断する分岐線」がこの倉庫内に延びている貴重な写真や
記述を拝見することが出来ました。











そこで合点がいった事は、

◎その当該分岐線や上で少し触れた踏切跡等々、今年の始め辺りに撤去されていったとの事。

◎戦前の倉庫群が経緯は不明ですが、やはり幾つか売りに出されていること・・・・




奇跡的に残されている線路跡や倉庫群も迫りくる変貌の時を迎えているのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9404671.jpg

パックマンに登場しそうな消火栓






























横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_941477.jpg

宇宙人的なキャラクターを冠する消火栓マンホール
















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_946659.jpg

元は陸続きの半島だった場所を開削した、新井掘割水路。

半島の中でもかなり険しい地点を開削したのでは・・・
今では何事も無かったかのような表情で両岸が対峙しているのが面白い。






横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9471457.jpg

小籠包みたいなのが付着しているタイプの擁壁

















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9494291.jpg

立入禁止の吾妻島。黄色いトンネルが口を開けていました。














横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9522158.jpg

軍港クルーズチケット売り場内の天井にあるのは
海軍将校クラブ時代のシャンデリア。














横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_9533465.jpg

「JR横須賀駅」。
名前に比してとても静かで落ち着いたレトロな駅舎。

入るとホールのような造りになっていて、階段がなくスーッとホームが広がります。









横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10135428.jpg

ホームに入って右手側の線路は車止めがあるけれどどういう使われ方をしているのだろう・・・

上下線とも左の番線から発着していたように記憶しているのですが。



















横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10145154.jpg


線路の行き止まり地点。
何か詰まった感じや達成感もあって、その時間的雰囲気が何とも言えません。

線路間ににょっきりと、赤い消火栓







田浦駅も横須賀駅も、梁や屋根裏が水色に彩色されているのが印象的でした。

レトロで、上品かつ明るく健康的な海のイメージ。


横須賀・田浦の引込線痕跡と倉庫群を探訪_d0250051_10425117.jpg

おそらく、これ以上に多様に分岐し物資を運搬していた事と思います。
今回目視で確認した以外にどれだけどのような状態で残っているのか、興味は尽きません。


↑比与宇トンネルの所、何だかモヤモヤしています・・?


# by onnbubatta | 2013-11-18 11:56 | 神奈川 | Comments(2)


暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体   その他徒然(適当です)


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