水面に映るもの。逆さ目黒エンペラー等々
ねえ、目黒川沿いにお城がある~。何だろうね~。
花も恥じらう中年がやってきました。
波動で水が揺れたり、空模様が変わるたびに形がざわついていくのが面白くて、飽く事なくずっと眺めていました。
一つとして、同じ瞬間は無いから逃したくない。
ノイシュバンシュタイン城にも見えてきたりする瞬間もあったりして。
どこなんだここは。
子供の頃は注射針とか国家の威信みたいなものが想起されて、畏敬の存在だったんですが。(御茶ノ水駅そばのニコライ堂に似ているビルとか。)
根元から揺ら揺ら崩れ始めて。
〽「2時間だけの エンペラー♪」(わかる人いるかな?)
次は、太鼓橋から至近の、行人坂の大円寺へ。
波紋が綺麗だ・・・一心不乱に凝視してしまう。(水は乱れているなか)
い、いつからいらしたのですか?いつもいるわい。みたいな会話を想像しつつ。
大きな鯉が接近中・・・お地蔵様の「おわっ!」という声が聞こえてきそう・・
顔面を横断する鯉にも動じない、涼しい表情。
こんな境地に達する日はいつか訪れるのでしょうか・・・
頂き近辺は虫の触角のようでした。今はもう竣工しているのかも。
「行人坂の魔物」によると、こちらの「目黒分室」として現在は使用されている建物が、岩永省一邸の一部であるとの事。
(この地における「目黒雅叙園」は広大な岩永省一邸を入手する所からスタートしている)
広大だった頃のかつての雅叙園の名残、「マンション雅叙苑」に残る太鼓橋遺稿
寒い中、満開の桜を独り観桜会と洒落込み、いつもは出掛ける支度グダグダ野郎ながらも
点灯のその瞬間に居合わせたいと、パンクチュアル到着。
吉原を彷彿とさせる虚飾感。
ちりちりと、線香花火のようにも見えてきて、春だか夏だか、果ては冬。体内季節時計が狂い始めたのでした。
この妖しさ・・・きっと何か発生しているのでしょう(マイナスイオン以外の何かが。)
同時に色々集まってきそうなアトモスフィアです
所変わって、今年2017年春の飯田橋。
駅のすぐそば、神田川沿いに素敵なビルがあるのです。「千代田ビル飲食街」
早春の頃、早稲田の甘泉園or水稲荷神社にて。
波紋がすごく気に入っている一枚です。
お顔もお髭もはっきり映り込んでいるね。
ここはどこの川跡でしょう??↑
2018年5月に撮影。↑
2018年5月「この場所にいたカバさんやウサギさん・・・どこに行っちゃったんだろう」
待ってれば戻ってくるかニャ・・・?
西新宿は和泉川の暗渠にて。川跡には遊具が置かれていたのですが、2018年春に撤去されてしまいました。
昨年のサントリー美術館 「水 神秘のかたち」展で触れてから、ずっと来たいとは思っていた場所ですが、年末に実際に京都に降り立った時はその事をすっかり忘れ果てていて。(別に行きたい場所が沢山生まれ出でて、埋もれてしまった・・・)
二泊目の朝に急に、ひょんな事から思い出すことが出来て。京都滞在中に別件で色々とやり取りをさせていただく中で、直接神泉苑の話題ではなかったのですが色々と記憶の糸が繫がったみたいで。
急遽、馳せ参じたのでした。
どんな宴が催されたのでしょうね。曲水の宴とかもいいね。
#
by onnbubatta
| 2017-07-13 12:41
| 目黒川
|
Comments(6)
江戸川区葛西沖残照~旧海岸線の痕跡を追い求めて
「島」巡りに勤しんでいました。
そんな中で、南へ南へ、葛西沖まで押し流されてきた感じです。
江戸川区の左近川より南側、かつての堀江町辺りから、かつての海岸線や海の名残を探して歩きます。
遠ざかった海辺の他、失われた水辺の風景について気づいたことを綴っていきます。徒然と。
品川や大森と比較したら、海の記憶がまだ新しい、近い方なのではないかしら。。などど淡い期待も込めています。
それが良いのか悪いのか。
今昔マップ(1896-1909)より引用させていただきました。
かつての海岸線の形が何と明瞭な事!!
そして、現代の地図でも「450号線」として海岸線の形が見事に継承されていることに驚きます。
海岸線の原型は、江戸時代に進められた新田開発により形成されたもので、葛西から浦安にかけての海は「葛西浦」と称し、三枚洲と呼ばれる我が国でも有数の干潟が形成され、大小さまざまな砂州(大三角・小三角・上蜆島・下蜆島など)が点在し、遠浅の海岸ではかつて貝や海苔の養殖が行われていました。
左の古い地図の中央辺りを流れるのが左近川。左近川の南側が旧堀江町で、かつては千葉県行徳の所領(飛び地)、1895年に東京府南葛飾郡葛西村に編入されたのだそうです。境界の地だったのですね。
確かに「東京都市地図」で明治の頁を見ると、左近川が「江戸川」の表記になっていて県境の線が描かれていました。
(帝都地形図の解説文では古江戸川、江戸川の分流、と記載されています)
一方、埋立られて新たに生まれた土地が「臨海町」「清新町」。
葛西の南辺りは新しい街のイメージが色濃いながら(たぶん臨海町のトラックターミナルとか清新ニュータウンの方に強く引っ張られている)、「左近」などと何か旧い文字が・・・心くすぐられる時が到来。
以前、雑誌「散歩の達人」で葛西の団地の方(ざっくりした記憶)にある、かつての海岸堤防の碑のようなものが1ページで紹介されてて、心に留まっていたのですが、なかなか葛西方面に足が向かず・・・
時は満ちて、「堀江団地」で下車して歩いて見ることに。
海岸線全ての踏破はしていないものの、まずは岬のような突端地形が目についたのでそちらを目指します。
見事なカーブを描いています。緑地の中に異物のようなものが埋まっていますが・・・
植栽帯は「健康の道」として車道より一段高い位置に設けられており、一度こちらのゾーンに入ると、なかなか下界に降りられなくて後悔しました。やめられない緑道。(緑陰を掻き分けて降りるのにはちと高さがあるのです。)
鼻・・・まさに突き出した岬!(この石碑の説明は健康の道側からでないと読めません。この界隈、史跡とかなさそうなイメージだったので嬉しくて熟読。)
確か、手持ちのワラジヤさん昭和41年の地図でも左近川の河口が「新漁港」と表記されていてなるほど、とは思ったのですが・・・
かつての武田家家来の向井氏の流れを汲む、幕府水軍の船手頭・向井将監が住んだことに由来すると伝えられているとの事です。
23区に「鼻」地名の岬があったなんて。岬ウォッチャーのわたくしとしたことが・・・
俄然、前掲の今昔マップの古地図が、将監さんのお顔に見えてきたのです。
1945年の国土地理院空中写真より。
矢印がの地点が「将監の鼻」になります。
左・東京方面を向いたアフロの人の横顔そのもの・・・鼻があって目の窪みも。大きく開いた口元は咆哮か、慟哭か。
喉元の辺りの三角州が、かつて大三角と呼ばれた壮大な中洲で、現在のディズニーランドがある一帯です。稲妻のような亀裂に目を奪われます。じわりじわりと、触手やら菌の様にも見え。
干潟とか洲とか、写真ごとに形が違ったりして面白い。。。一つとして同じものはないでしょうから。
脳内メーカーの横顔を彷彿とさせますね・・
1965年。開いた口が塞がらない、といったところでしょうか。(は?)
埋立事業は1972年頃から本格的に進められていきます。
高度成長期には産廃業者による不法投棄、工場排水による海洋汚染など様々な受難に直面する葛西南端域。慟哭は、そこに起因しているのかもしれません。
(六価クロムの不法投棄も堀江町を発端に社会問題化)
1974年。将監さーーーーーーん・・・!
かつてのくっきりとしたフェイスラインは失われて、新しく出来た土地と馴染んで埋没しつつある過程にもえます。つぶらな瞳(学校?)まで出来ていますね。(横顔美人とか横顔からのアングル、英語で何か表現あったような気がするのですが思い出せません。今ここの場で使ってみたかったのに~。バックシャン、みたいなノリで。)
横顔と云えば正岡子規だけれど、葛西には将監さんが居る。というより、居た。
左近川は新たに、荒川まで新水路が切り開かれています。
この時代の住宅地図には、将監の鼻辺りに「おきな釣堀」という施設が見てとれます。
同じく将監の鼻付近、時代を遡って帝都地形図収録の昭和18年の地図において、「潮干狩り休憩所」の表記と共に鳥居の記号が二つばかり描かれている点、ザワザワする感覚を覚えます。
現地を歩いた際には、そういった「水面の記憶」のような匂いは感じ取れませんでした。海側は高い生垣で隔てられており、向こうの様子すら見えにくかったので。(物流関係の施設とは判りましたが)
茫洋たる海が本当にここにあったのかなあ・・・
埋立には陸上土と浚渫土が使われたとの事。埋め立てられる前の、不法投棄に見舞われた周辺写真を「今よみがえる葛西沖」で見ることが出来ます。
車道側に降りて確認した、将監の鼻の石碑と「旧海岸堤防」プレート、堤防の痕跡構造物。
この辺りにかつて「江東天然瓦斯興業」の採掘場がありました。南葛西~西葛西付近は天然ガスの採掘が盛んで、地下水と一緒に汲み上げた結果、一帯が激しい地盤沈下に見舞われた歴史があります。
このまま、左近川がかつて海に注いでいた場所にある「海岸水門」の遺構が残されている場所まで歩きます。
写真に見える水面は左近川の一部(中間地点辺り)でやや広い水域。まるで池に面した公園のような場所ですが、かつては東京湾に面した河口かつ港でした。ちなみに、左近とは前述の「向井将監」の官位・左近衛将監に由来するのだと初めて知りました。
1965年の国土地理院の地図を引用。
かつては「べか舟」が多数停泊していた港。
訪れた際は穏やかで、池のような止水面の如き様相でしたが、時折脇の古い吐出し口からドド~ッと水が流れ込んできてハッと我に帰る瞬間がありました。上の写真で、手前側に波紋が揺らいでいるのはその影響です。
南葛西での産廃業者による不法投棄が問題となった1970年、ここの海岸水門の道路を封鎖して区が産廃業者を締め出した事件があったのだそうです。穏やかな現在の水面と、かつての騒ぎの舞台と。
こここれって橋跡の部類に入るの・・・???
「かいがんすいもんはし」。
橋に覆い被さっているのは、酔芙蓉でしょうか・・~?
芙容やタチアオイなど、アオイ科の花に惹かれます。妖艶で、花びらなど楊柳生地のように儚げで。
(丸紅の芙容グループ命名などはどういった謂れがあるのだろう・・・とまた脱線気味。)
こちらはイチジクっぽい葉っぱです。
そして、隣接する「新田コミュニティ会館」はかつての排水場。
「リラ・ポルト」ふと目に入った物件名がそこはかとなく黙示する、河港の記憶。
そして白子不動産、白子のりに関係ある会社かと思うんだけど・・(白子のりは江戸川区が本社。なに、ぬね、のりのCM覚えてます・・)
これもポルト=水門or河港、と海苔、たたみかけるように海の記憶が迫りくるのです。それはひたひた、波音にも似て。
車の下のお母ちゃん「アンタ、それ以上近づくんじゃないよ!」とばかりに子猫の背後から念を送って牽制しています・・
この先、現地確認はしていないのですが地図上で気になっていた物件が二つあります。
まず一つは西葛西8丁目の、江戸川プールガーデン跡地。
アーティフィシアルな青。蝶の片翅みたいだね。
グーグルアースで確認すると、施設が取り払われたような状態の画像ですが、こちらはまだプールの複合施設が確認できます。
近いうちに行くことになると思います・・・
続いて。拙ブログで度々引き合いに出される、手持ちの昭和41年発行ワラジヤさんの地図で気に掛かっていた物件。
こちらの施設、ずっと公務員宿舎か建設会社の寮か何かだと思い込んでいました。
他にも適当な土地はあるだろうに、何でこんな「果て」のような立地に寮が???と懸案だったところです。
今回「今よみがえる葛西沖」という文献をめくるうちに当該施設の名称が出てきて、改めて少しだけ調べたら、
昭和35年から41年の6年間だけ存在した、江戸川区の校外施設・臨海学校だったことが判りました。
東京23区に、自区内で臨海学校を有していたとは。江戸川区の存在感偉大。驚きました。
前掲の1961年空中写真では青丸で囲った辺りになりますが・・・これが臨海寮なのかどうか?
(ちなみに大いに遡って、今昔マップ(1917-1924)では一帯が養魚池と表されています。)
埋立が目前に迫る中での、6年間の学校。
追って調べて、追記するかもしれません。。
跡地は「なぎさ和楽苑」という高齢者施設。
プールガーデン跡地、葛西臨海寮跡地、あとは長島川が海に注ぐ河口にあった「浦島(地図によっては蒲島)水門・橋」、これらに関して再度詳細に調べたいし、写真があったら見てみたいなあ(特に後の二施設)。
巨大生物の立ち姿のようにも見えてきます。
堤防遺跡として見るか、記念碑として見るか。
数値や文字が刻印された側面を見ていたら、以前訪れたブセナ岬にあるサーフィンの大会の記念碑を思い出しました。
潔いまでの鋭利な断面と、柔らかに沿うススキたち。
分断された旧堤防の荒川寄り部分。こちらは断面がいささか粗く、何だか救いを感じてしまうのは何故なんでしょうか。
1957年(昭和32年)に完成をみた堤防ですが、整備後も地盤沈下のために嵩上げが繰り返され、10数年後には葛西沖の埋立によりその役目を終えることになります。時代の変化の速さ・大きさがいかに甚大だったのかひしひしと感じます。
今回参考にした文献「葛西浦漁業史」に、浦安の清瀧弁財天が地盤沈下によって水没していく写真が掲載されています。
見ると深く心に傷を負いそうな、痛ましい一枚でした。
(葛西浦漁業史、「ヒトデ襲来事件」など、SF調かつセンセーショナルな見出しもあって大変読み応えあり)
波音や、沖の風景を想像してみようと現地に立ったのですが、首都高の出口直下で車両の通行量も多く、また頻繁に通過する東西線の音が響いて、なかなか難しい状況でした。
堤防のすぐ際には、昔から変わらず八幡神社が。社殿は海に向かって建てられており、高波で敷地内の一部の樹木が枯死するまでは森のような様相で、航海の目印となったと伝わります。
波打ち際の神様・堤防・地盤沈下観測井と、時の流れを象徴する要素がギュッと詰め込まれた界隈です。
こういった場所は、高速道路とか巨大構造物によって狙われてしまうのかな。
日本橋とか、銀座のかつての河川と同様に、巨大な力が上から魔物のように覆い被さってくる感じ・・・
何か、塔婆のような立ち姿。
都市の巨大構造物や喧騒に囲まれた中、この一角は静かなる祝祭の最中のよう。
「日がな海を眺めながら、潮風を吸い込みながら、街や人を守ってきたんだ。。」
怒涛のような波を受ける時もあったであろう。
葛西海岸堤防の写真は、現在の地点・アングルと対照させているものを江戸川区の公式サイトで見ることが出来ます。
この他にも、埋め立てられた長島川の写真など、貴重な古写真が多数収録されています。
最近葛西近辺の地に憑りつかれたようになっている中、激しく思い出されたのが3年程前の地下鉄博物館の催事です。
実際に観に行ってはいないのですが、当時の駅貼の告知ポスター写真の印象が強烈で、湿地帯のごときフロンティアのような土地に建設されている東西線の高架橋の写真。
もう、画面を切り裂くようなその姿がとても印象的でした。今この、頭の中が葛西沖でいっぱいの状態のまま、展示を観たいというかなわぬ欲望で頭を掻きむしっております。
図録とか、無いのでしょうか・・・
「東西線開業と沿線地域発展の軌跡展」で画像検索してみて下さい。
【追記】自分で撮影した写真が出て来たので、(少し、ぼやけていますが)載せておきます!
現在の葛西沖、葛西臨海公園の西側の遊休地に、東京オリンピックのカヌースラローム競技場建設計画があるとの事。
↓↓
目まぐるしく変わっていく東京。
#
by onnbubatta
| 2016-10-19 14:34
| 江戸川区
|
Comments(0)
谷端川暗渠。北池袋~下板橋間、変電所内の蓋暗渠(擬き?)と井戸守猫ちゃ
「池袋」「板橋」といったドン!と大きめの地名に、「位置的」冠詞が載せられた、東武東上線の北池袋・下板橋各駅。
本家に非ず、の雰囲気?サブ的位置づけを帯びた駅名に惹かれます。
ターミナル駅の次の駅が「何かいいものがある」雰囲気なのは、北品川で実感しています。
まず、駅ホームに降り立った目の前の風景が、両駅ともとても味わい深いのです。
下板橋駅から。
衣料関係の会社だと推測しているのですが、少しホテルっぽい看板サイン。夜はどんな光を放っているのだろう・・・
下板橋駅は、すぐ脇を谷端川の暗渠と交差している箇所なのですが、付近は明確に緑道化されていることもあり、しっかり歩いた事があまり無かったのです。食わず嫌いを悔い改めつつ、少しぶらぶらしてみます。
旧い地図などを眺めると、駅南側に製餡所がちゃんとあったり、駅西側に製氷所があったり。川沿いを実感する材料を得つつ歩くと気分も盛り上がります。
上流方面へ向けて出発。
右手の緑道部分より、車道に残る舗装の名残のそこはかとなさの方が断然気に入りました!ザラザラとしたテクスチャー、しかも手前が消えかかっているし。
緑道部分は車道部分より一段高いのですが、私は低きを選択。
東京湾から、隅田川→神田川→谷端川、と遡上してきたのかもね。
この、山岳感を前面に押し出した名乗り!!のオーナメント。
山本体も峰々していて立体感あるし、それを際立たせるのが背後の・・・背景、これ何だろう。舞台の大道具のような造り。
オーナーさんにご縁のある土地なのか、何なのか。海の物(亀さん)を見た直後にこれ。
海千山千、谷端川本川。
「谷端川北緑道」の「豊橋」付近(谷端川が劇的に曲がる箇所)に、怪しい動きをしている猫に出会いました。
マーキング中だったのかな。
猫ちゃも谷端川の屈曲を表現しにきてくれたのかもしれません。尻尾のところなんか特に、ね。(思い込みMAX)
警告色のこちら。壁をガードしているのか、境い目を強調しているのか。
弧を描いた結界なのかもしれん。
幅員を減少させる目的でこういったものが設置されている場所もあるのですが、果たして・・・
そして、先程ピンクの丸で囲った辺り、右岸側には変電所があるのです。そこを覗いてみると・・・
うをっっ!!!我々のような者が見た場合、蓋暗渠に見えてしまうのですが・・・
落ち着くんだ。
単なる敷石かも。性急な思い込みは良くない!と自分を制すのに躍起になっておりました。
交差あり、鉄板で継ぐのもあり!
変電所の近くに暗渠が存在するケースもありますが、(実際、ここの東側隣地との境界も水路跡)敷地内にこういった思わせぶりな構造物があるとは。
トラップかしらん(疑り深い)。蓋暗渠擬きなのか、独りで騒いでいるのもどうかと思うので記事にした次第です。
この変電所、隅々まで見て回りたい~感電覚悟です。
あれこれ想像を巡らせつつ、北池袋方面へ向かいます。
谷端川、上流部分はどうしちゃったのというぐらい激しく曲がって流れ、上の豊橋付近でもググッと折れ、埼京線を越えたあとは意を決したかのように大人しく南東方向へきれいに落ちていくのが面白いですよね。
谷端川に影響されたのかと勘繰るぐらい、東武東上線も下板橋→北池袋に上ると大きく弧を描いて行きます。
途中で呼ばれた、井戸の墓的な物体。
こちらが序曲を奏でるような構成で、このあと井戸の密集エリアに足を踏み入れるのです。
バアアアアン!とプロパン。燃え尽きた感のある「プロパン」とめくれたポスター。絶対にいい街だ。
電車がひっきりなしに通過し、踏切の音がせわしなく響きます。
写真奥には大きなマンションが控えていますが
木柱にタワシが引っ掛けられていたり
お花に惹かれて覗きこむと、立派な井戸場もあるのです。
↑現役かな?
カメラ目線でしょう?
「おいらに挨拶は?」
鼻が大きくて、イリオモテヤマネコみたい。こちらを気にしている様子です。
↑水道の下に格納された電動ポンプの井戸かな?
次々と見本市会場のごとく現れる井戸、ナンバリングしていきたいぐらいだ。
そしてまたあの井戸守猫ちゃが!!井戸のある所、キジトラ在り。
「・・・挨拶は?」
「息苦しいよ~」
ここまでくると笑いが起きてしまう。しかしここで笑ってたら、ただのおかしな人。
一体いくつ井戸があると言うんだ・・・ハウメニ~
ほぼホーム端に近い位置、
トドワラというか、大正池から出ている枯れ木のような風情の物干し。紅をうっすら帯びた色合いのアパート。
先端がビンビンきています。
同じような色調の物件が線路際に並び建ち、独特の佇まいを造り出しています。
この辺りを歩いても面白そうだな・・・
ちなみに、北池袋の井戸地帯最初の写真にも、井戸守キジトラ猫ちゃが写っています。おわかりになるでしょうか?
追記:下板橋駅上り線ホームの不思議な耕作スペースを載せておきます。 東急線では施されないような植栽、否、その無造作感がクールなのかもしれない。
枯れた茎なども束ねておいてあり、ラフな感じ。穴だらけの葉っぱ群、何か怖くて、だけども笑ってしまう・・・可笑しいよ~
昔は花壇帯のような使われ方だったのでしょうか。
谷端川・三之橋の女神さま
北池袋駅近辺の過去記事はこちらです。 上池袋~北大塚あたりを歩く(谷端川巣鴨学園支流暗渠も)
#
by onnbubatta
| 2016-06-25 10:21
| 谷端川
|
Comments(0)
新小岩:江戸川区松島3丁目、青の世界~僅かに残された奇跡の蓋暗渠アイランド
所用で近くを訪れる運びとなったため、新小岩から15分ほどの場所にあるこちらの蓋暗渠を一度確認に出掛けました。新小岩なのですが葛飾区ではなく、江戸川区にあり、説明&把握するには微妙な立地になります。
当該暗渠は以前しかすけさんがレポートされ「新小岩の短い蓋暗渠」、暗渠界が震えた(と言っても過言ではない)案件で、私もずっと心の片隅に住まわせていた水路跡です。
確認後、所有している資料二つに記載されている水路跡だったことが判明、しかしながら全く「out of 眼中」(古いね)でした。
この辺りの旧地名が「道ヶ島」なので、仮に「道ヶ島の水路跡」と呼ぶことにします。
当該水路跡の至近に「東福院」というお寺があり、開祖である秀円創都が住民と力を合わせて荒地を開墾したため、「堂ヶ島」の名が付き、それが道ヶ島となり、江戸川区発足時に消滅した地名なのだそうです。
この辺は島要素があるのか・・・そのことはこの水路跡の先にある「香取神社」を訪れると、更に深く理解ができるのです。
新小岩からバスで二つ目の停留所辺りに位置します。バス停そばには武蔵川部屋も。
久しぶりの、深い深い青の世界。。。↑
(旗の台の暗渠の続編を綴ろうと思っていたのですがあっさり心変わりします。何というか、ここは拘泥したい水路跡なのです)
最初に行った日は好天で、何枚か写真を撮ったのですが(青空は綺麗)暗渠は曇天が似合うような気がするので(蓋などの質感がわかりやすい)曇天の日に再訪しました。
接続関係はわかりませんが、このあたり歩いて見ると土地が微かに上がったり下がったり。寺院もありますし、微高地的な土地の模様。
隣(南側、写真左)は青いトタンが印象的。北側隣地はコインパークと、「シンボルツリー」と私が呼んでいる一本の樹木が残された空地。廃れたような、中途な佇まい。
北側は特に、何だか謂れのあるような、何かを感じさせる区画なのです。
ここは土が露出していたり、敷石のようなものが見えてます。
しゃがんで撮影するとこのような感じ。蓋に穴が開いているのも判ります。
そして「帝都地形図」を確認してみると、橋に交差して道が描かれており、更には
「道ヶ島裏橋」の表記があったのです。(平和橋通りに面した、第一の橋跡には特段橋名の表記はなし)
オレンジ色が、「帝都地形図」に描かれていたかつての道。水路跡と交わる地点が「道ヶ島裏橋」。
私の所有する別の地図「ワラジヤ」の昭和41年の「小松川」の頁にも、この水路が記載されていました。道の名残のようなものも描かれています。道ヶ島裏橋、に対して道ヶ島橋が上の地図でいうと43番と44番の間に架かっていました(橋情報は帝都地形図より)。
2016.10.19追記 道ヶ島橋の方については、
ガマちゃんの松島物語:語り継ごうふるさと : 東京府南葛飾郡西小松川字堂〈道〉ケ島の、大昔から現在の松島、将来にわたるお話 伊東春海著
2014年出版
という本の中に、20年ほど前は橋の欄干が残っていて、「どうがしまはし」の銘があったこと、道ヶ島の由来となったであろう「お堂」がかつての交番の場所にあった事が記されていたと思います。
かつての交番があった場所については、後程述べていきます。
う~ん・・・表に対する裏。繁華的な側面で裏なのかしら・・?
平和橋通りに向かって振り返り撮影。
ねえ、あなたが「道ヶ島裏橋」なの・・・・?地図に載るような、名前のある橋なの?
とてもそうは見えないのですが・・・
思いがけず、この水路跡と今は無き道との交わりが明らかになり、深い感動に包まれます。
ふと、この扉から誰か出てきて、この流れの事を語ってくれはしないだろうか。
そんな情事を望んでしまいます。
もう、この無造作感。無造作に~髪をかき上げ~計算してないよ~みたいな風情でしょうか・・・
突当りで右に曲がる流路になります。
画像では伝わりにくいですが、この変なプランター、うこっけいの卵のよう、というか不思議な青色なのです。子供の頃図鑑に載っていた、魅惑的な色の鳥の卵を思い出します。
植物、ツンツンしていますね。
道路を挟んで、また謎のプランター置き場を経由して、左へと流路が続いて行きます。
何かもうこのあたり、どちらの方向に向かって流れていたのかよくわかりません。
旧い地図を見ると、このプランター置き場兼流路の付近、昭和30年代は「香取前巡査派出所」。
前から思っていたのは、交番って、今ある場所も、かつて交番があった場所も、何だか土地の核になるような場所にあるような気がするのですよね。かつて交番があった場所は、そのあとも建物が建たずに利用されていたり。。。(神宮前の、千原児童遊園地もそうだった気がします)
2016.10.19追記
前述の「ガマちゃんの松島物語」という本の中で、道ヶ島(堂ヶ島)の由来になったであろうお堂が、かつてこちらの交番の場所にあったのでは、と書かれていました。
その記述が何だか凄く頷ける気がするのです。
更なる発見は、1963年の地図に、東福院の北側、緑で囲ったあたりに「新小岩温泉」という表記があったこと。
新小岩の松島地区にはかつて三業地があり、真上の地図だとちょうど左上端で切れてしまう辺りかと思いますが、そういった縁なのでしょうか。1963年の住宅地図を細かく見ていくと、旅館や「新小岩トルコセンター」などがみてとれます。
真の温泉なのか、湯屋なのか、なんなのか(ちなみに上野東天紅のビルも建築当時の住宅地図上の表記は「上野観光温泉建築中」でした。)
増々、湿気が立ち上ってきました。もう、心情的にはホットヨガをやっているような感覚を覚えます。
道ヶ島の水路跡の或る一角の全体像。真ん中のオレンジ辺りがかつての通路。
好天バージョンも数葉収めておきます。
東福院の前の道にはこんなものもありました。第六天。
さて、この水路跡の延長のように見える、平和橋通りを渡って西の水路跡は香取神社の手前で途切れています。
奥が香取神社。
「昔この辺一帯が芦原で舟が自由に往来出来た頃、その中に浮かぶ道ヶ島という小高い島に、香取神社を勧請。当時国府台の間々の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船舶の目印にしたので、「間々井宮」と称したと伝えられる」
航行する船舶の目印となる小高い森・・・川崎の船旅の記事でも登場しましたね。足取りも心もプカプカしてきました。
私は今日漂泊していたのだなあ・・・
弓取の銅像についても説明書きがありました。
(ちょっと高枝切りバサミの事なども考えていました・・・)
当地が未だ利根川の本流であったころ、下総国府台間々の入江よりはるかに西南の沖に浮かぶ道ヶ島の伝説が神楽になって伝えられてきました。
この島は下総国と武蔵国を結ぶ航路の中継所で大変重要な位置にありました。丙午毎に来る災難に島民は怯え、鎮守の森に集まり悪魔を追い払う弓取の神事に一年の安泰を祈りました。」
ビンビン響くような文節がそこここに採用されている!さらっと触れているけど本流だよ?本流。
おまけに人々を「島民」と!
新小岩松島の、僅かな区間の暗渠・・・極めてKEYになるエリアに存在していたのですね。
葛飾関係の暗渠にとてもお詳しくて、こちらのブログにもコメントを寄せて下さる「ゆ」さんにもお話を伺ってみたいです。
そして帰路に。新小岩駅、停車場の雰囲気を色濃く残していて(更に駅ビルとかもない)郷愁を覚える駅舎でした。
この青さよ。
~後記~
もう少し時間があれば、近隣の、野球で有名な関東一高の校舎を一度見ていたいと思っていたのです。
前掲の、ワラジヤさんの地図(昭和41年)でずっと気になっていた関東一高。
二棟も円形校舎を擁している事です。
残念ながら、北側の方は取り壊されてグラウンドになっている模様です。
(1997年のグーグルアースより)
円形校舎と云えば、王子の桜丘女子高校(逆川の暗渠近くかな)も地図上では目を引きます。こちらは残っているようで、ほっと一安心。
(十年以上前に共学化され桜丘中.高等学校となっているようですが、昔の女子校のイメージを私がまだ引きずっているのでこう表記しました。)「
机の配置に難がある、等の理由で円形校舎は減っている傾向にあるようです。こちらも早く見に行きたいと思っています。
【2017.7追記】
名無しさま からの情報を頂戴し(重ねて御礼申し上げます。)現地確認に行きましたら、水路に架けられた蓋、橋跡は撤去されてアスファルトが敷き詰められていました。
既にフェンスも撤去され、隣地のシンボル・ツリーの傍らに高く積まれており、事が終わったのだと通告されたようでした・・・
何の木なんだろう・・・
2021.11再追記
2021.10、久しぶりに訪れてみると、通行してほしくないのか、パイロンとポールがゆるっと置いてありました。
#
by onnbubatta
| 2016-06-15 15:42
| 江戸川区
|
Comments(9)
旗の台:昭和大学そば。野の花咲き乱れる傍流蓋暗渠
超久しぶりで、立会川関係の暗渠について綴ります。
中原街道のすぐ南にあるややカーブのきつい道が旧道。旧道に面して、その水路跡は現われるのです。
ブロック塀が橋跡になっているようにも幻視します。現代の橋:ブロック塀の暫定さ加減。
そして・・また別の日に撮った別の姿。ひらひら~幟り旗と、ブロー台。
水路跡が見にくくなっているけれど、かえって「旗の台」に似つかわしい旗が強風に揺れる風景が現れて。源氏の白旗が蘇り、気持ちが高まります。
少しずつ荒れた雰囲気が出てきました。
一旦引き返します。
ちょっと石が飛び出してくるのも風情があります。
北に向かって(上流方向へ)、回り込みを開始。
あった!続いてた!こちらは路面高から一段低くなっています。
プランター手前辺り、接道面へ向けての質感がザクザクしていて非常に好感が持てます。
一歩失礼して、水路側から。
この先は中原街道を堂々と横切る訳ですが、果たしてどういった状態になっているのか・・・こんな細流が大きな通りを越えていくさまを想像すると気持ちが込み上げてきます。
南国っぽい鉢。名前は解らないけど単子葉系かな。こんなに綺麗な水路跡を見せてくれてありがとう~。の気持ちを抱いたまま、幹線道路の中原街道を渡ります。
建物の区割りなどをみながら、推定して辿って行きます。
建物の建ち方を観察するに、木曽路の左手側に流れがありそうなのですが、ここは目視できるはっきりした痕跡はなし。
中原街道に面して建つ「木霊稲荷」とサイゼリヤの看板。
続いて、札場の跡。「中原街道高札場跡」
それにしても、何とも不思議なサイゼリヤだ。ちょっとした螺旋階段の下に石材が集積している。
改めて木霊稲荷の沿革を読んだら、「別名 不思議稲荷という」(不思議と願いが叶うらしい)。
右が中原街道。現われた三角地帯の奥に、庚申塔がありました。
説明書きに拠ると、「~日蓮宗の影響か、青面金剛・日月・三猿の彫られていない文字塔として特色がある。全村のほとんどが日蓮宗といわれる旧中延村において、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申塔の存在を示す資料として貴重である。」との事。
付近を歩いていると、昭和大学関連の建物がまとまって、ではなく点在しているのが面白かったです。
こちらも、昭和大学の施設になる模様。
と、水路跡の続いていそうな路地に勇気を出して入ってみると・・・
個人宅の縁側のような空間に水路跡が現れました。蓋にまだ白さが残っていて、新しい質感!
写真を二枚だけ撮って、そそくさと脱出
(上流方向)
(下流方向)
最寄駅は東急大井町線&池上線の旗の台。人生で初めて降りた駅ゆえ、概要の把握すら未熟です。
イメージは、自由が丘のような形状で斜め交差した駅、香蘭女学校の最寄り駅。「女学校」名称や変わらない制服、落ち着きを覚えます。
ちなみに香蘭女学校、トットちゃんの出身校との事です。
今回ご紹介する水流は明治期の地図にも記されているので、呼び名があるのかも知れませんが(また他の暗渠家の方が名付けているのかもしれません)、個人的には至近に立地する昭和大学の卒業生、高須クリニックの高須院長のイメージが強く、作業する中では「高須院長の暗渠」と呼んでいます。
昭和大学のHPには実に素晴らしいページがあって、
↓
昭和大学本校舎と伝染病棟の間に架けられていた「医専橋」の話、昭和初期の立会川周辺の様子、1930年代の校舎と雪景色の立会川の写真、昭和30年代の校舎と「屋敷下橋」の写真など貴重な写真を見ることが出来ます。
傍流は、本流(黄緑ライン)のすぐ東を沿うように流れています。中原街道(クリーム色の道路)の旧道あたりからみていきます。
恥ずかしながら、中原街道についての意識が今迄薄くて。
中原街道のすぐ南にあるややカーブのきつい道が旧道。旧道に面して、その水路跡は現われるのです。
ブロック塀が橋跡になっているようにも幻視します。現代の橋:ブロック塀の暫定さ加減。
そして・・また別の日に撮った別の姿。ひらひら~幟り旗と、ブロー台。
水路跡が見にくくなっているけれど、かえって「旗の台」に似つかわしい旗が強風に揺れる風景が現れて。源氏の白旗が蘇り、気持ちが高まります。
「はた」地名って、もののふ感が感じられて好きなのです。
旗の縦横両方の並びバージョンが見られて良かった・・・
この水路跡は一旦、奥に見えるマンション敷地で遮られます。
旗の縦横両方の並びバージョンが見られて良かった・・・
この水路跡は一旦、奥に見えるマンション敷地で遮られます。
少しずつ荒れた雰囲気が出てきました。
一旦引き返します。
ちょっと石が飛び出してくるのも風情があります。
北に向かって(上流方向へ)、回り込みを開始。
あった!続いてた!こちらは路面高から一段低くなっています。
プランター手前辺り、接道面へ向けての質感がザクザクしていて非常に好感が持てます。
一歩失礼して、水路側から。
この先は中原街道を堂々と横切る訳ですが、果たしてどういった状態になっているのか・・・こんな細流が大きな通りを越えていくさまを想像すると気持ちが込み上げてきます。
南国っぽい鉢。名前は解らないけど単子葉系かな。こんなに綺麗な水路跡を見せてくれてありがとう~。の気持ちを抱いたまま、幹線道路の中原街道を渡ります。
建物の区割りなどをみながら、推定して辿って行きます。
建物の建ち方を観察するに、木曽路の左手側に流れがありそうなのですが、ここは目視できるはっきりした痕跡はなし。
木曽路は全て川のそばである。などど都合の良い一節を創作して呟いてみたり。
壷とかタライとか、容器系が置かれているのも暗渠サインの一つにはなるケースも多いのですが。。。決め手に欠ける感じ。
この先で錦湯という銭湯に差し掛かります。が、痕跡はわかりませんでした。(ちょっとこの辺り確認が甘かったかもという反省点)
(※痕跡の確認できなかった箇所の推定流路はオレンジで示しました)
(※痕跡の確認できなかった箇所の推定流路はオレンジで示しました)
再び中原街道に出てきましたが、この辺りは不思議な空気が充満していました。地図ピンク丸で囲った、変形六差路辺り。
中原街道に面して建つ「木霊稲荷」とサイゼリヤの看板。
続いて、札場の跡。「中原街道高札場跡」
それにしても、何とも不思議なサイゼリヤだ。ちょっとした螺旋階段の下に石材が集積している。
改めて木霊稲荷の沿革を読んだら、「別名 不思議稲荷という」(不思議と願いが叶うらしい)。
右が中原街道。現われた三角地帯の奥に、庚申塔がありました。
説明書きに拠ると、「~日蓮宗の影響か、青面金剛・日月・三猿の彫られていない文字塔として特色がある。全村のほとんどが日蓮宗といわれる旧中延村において、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申塔の存在を示す資料として貴重である。」との事。
古い地図を見ると、この三角地帯を含む一帯が「延山小学校分校」の表記がなされていました。
稲荷、札場、庚申塔・・・この一帯は地域の重要な場所だったのですね。
稲荷、札場、庚申塔・・・この一帯は地域の重要な場所だったのですね。
江戸時代の中原街道は江戸城の虎ノ門から相模国中原(平塚郊外)に通じる街道で、東海道が整備されるまでは主要道路であり、その間には小杉と中原に御殿が設けられたそうです。東海道整備後は幹線道路から脇往還へ変わり、江戸への食糧などの流通路となり、なかでも中原の特産品である酢の輸送に利用されたので「御酢街道」とも呼ばれたそうです。サワ~街道。
主役から脇役へ・・・東京にいながら「中原」(平塚)の地名を纏う。。。酸味・・・帰ってから知った情報。これらを持って現地を歩いたなら、また違ったものが見えてきたかもしれません。
この左側の道へ進んで、水路の痕跡を更に辿って行きます。
この左側の道へ進んで、水路の痕跡を更に辿って行きます。
付近を歩いていると、昭和大学関連の建物がまとまって、ではなく点在しているのが面白かったです。
こちらも、昭和大学の施設になる模様。
と、水路跡の続いていそうな路地に勇気を出して入ってみると・・・
個人宅の縁側のような空間に水路跡が現れました。蓋にまだ白さが残っていて、新しい質感!
写真を二枚だけ撮って、そそくさと脱出
(上流方向)
(下流方向)
道路との交差点を目指して、再び回り込んで行きます。ゴムパチンコのような形状のY字路にふと墓域が収まるように立地していたりして、やはり何か面白い場所だなと思いを抱きながら歩きます。(住宅地図で確認すると「法蓮寺 上ノ墓地」と書いてありました。荏原町駅の方の法蓮寺(旗岡神社の隣)の境外墓地(お寺のHPによると離れ墓地と表現されていましたが)になるようです)
普段街を徘徊していて、境外墓地って、何だか非常に惹かれるものがあるんですよね~。特に気になるのは、新青梅街道にある三宝寺境外墓地。早稲田高等学院のそばの。川に近い立地もさることながら、こんもりした塚みたいなのがみえるのです。
と、墓地を過ぎて左に曲がると・・・
パイロンとビンボウ草が私を迎えてくれたのです。
野の花咲き乱れる暗渠に降り立つことの出来た喜びよ。
虞美人草に慰められた事にして、美しい話と仕上げましょう。ナガミヒナゲシ、国立環境研究所の「侵入生物データベース」にも記載がある外来種で、「乾いた肥沃地を好む」との説明がありました。
こういう出会いがあるから、水路跡歩きはやめられないね。
夢幻の如き空間から、路面方向(現実現在)へと戻ります。
このあとは、猫またぎさんが以前書かれていた「旗の台の暗渠」を見学に行きました。次回私もご紹介できるかな・・・?
おまけ。
立会川暗渠cat。見返り美人。
トットちゃんに似ているかな、心なしか。
#
by onnbubatta
| 2016-05-11 12:34
| 立会川
|
Comments(0)
暗渠、猫、池、高低差、崖、弁天、軍遺構、建築、階段、廃線、天体 その他徒然(適当です)
by onnbubatta
カテゴリ
全体前谷津川
出井川
蓮根川
石神井川系
田柄川
千川上水
専用水道
渋谷川系
立会川
神田川支流
白子川
愛知県
藍染川
足立区
地方
石神井川
水窪川
えんが堀
百々向川
蟹川
神奈川
内川
新河岸川
谷中川
さいたま
谷端川
荒川区
葛飾区
千葉
世田谷
江戸川区
中野区
北区
目黒川
江東区
砂川堀
八王子
呑川
名古屋
愛知県
城南
三鷹市
足立区
堀跡
橋跡
未分類
最新の記事
比丘尼と橋跡 |
at 2024-02-27 21:44 |
「廃残の川」 江戸川区 雷川.. |
at 2024-02-07 21:47 |
若木の谷間 蓮根川源流歩き |
at 2024-01-25 20:44 |
足立区 お屋敷の構え堀跡を訪ねて |
at 2022-11-25 21:16 |
綱島温泉の名残を求めて~桃と.. |
at 2022-04-22 20:00 |
心機一転春が来た 田柄の鮮や.. |
at 2022-03-26 16:37 |
港区:芝公園にある三つの橋跡たち |
at 2022-01-30 16:57 |
新金貨物線 無用の橋脚(新中.. |
at 2021-12-14 20:36 |
「江戸川区 大きな池のある家」 |
at 2021-11-22 21:03 |
江戸川区で橋跡見つけた~~!.. |
at 2021-11-14 17:43 |
以前の記事
2024年 02月2024年 01月
2022年 11月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 01月
2020年 07月
2020年 04月
2019年 03月
2019年 01月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 05月
2018年 04月
2017年 11月
2017年 08月
2017年 07月
2016年 10月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 07月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
フォロー中のブログ
関根要太郎研究室@はこだてhoppy's
東京の水 2009 fr...
暗渠徘徊の日々
お気に入り(お邪魔しています)
最新のコメント
>sumizome_sa.. |
by onnbubatta at 20:24 |
(すみません、コメントす.. |
by sumizome_sakura at 18:09 |
以前この近辺を歩いたとき.. |
by sumizome_sakura at 18:06 |
>sumizome_sa.. |
by onnbubatta at 22:28 |
> ガーゴイルさん コ.. |
by onnbubatta at 15:31 |
綾瀬駅と北綾瀬駅の間に駅.. |
by ガーゴイル at 12:13 |
>一円様 初めまして、.. |
by onnbubatta at 20:16 |
初めまして。1年近く前.. |
by 一円 at 22:52 |
>古くからの住人様 コ.. |
by onnbubatta at 22:37 |
はじめまして。蛇崩川源流.. |
by 古くからの住人 at 13:25 |